【東京】岡野原大輔氏(33)は12歳だった1994年、母親の買い物を待っている時間をちょっとした読書に費やしていた。読んでいたのはデータ圧縮のスピードを速める新たな方法についての研究論文だ。興奮して体が震えるほど衝撃を受けたという。
岡野原氏は「息を呑むほど美しいものだった」と当時を振り返る。同氏はその後数ヶ月間にわたり自分で色々試したという。
東京で人工知能(AI)分野のベンチャー企業プリファード・ネットワークス(PFN)を共同で立ち上げた岡野原氏は現在、追い詰められた日本のテクノロジー産業という重荷を背負いながら、今度は自身の手での技術革新に挑んでいる。
日本の技術的優位は過去四半世紀にわたり欧米の競合に取って代わられたが、その大きな理由はソフトウエア分野が弱かったことだ。米アップルは優美なインターフェースとソフトウエア開発者が利用しやすいシステムを武器に、日本の家電メーカーを市場から追い出してしまった。
ロボットやスマートフォン(スマホ)向けの小さな部品、自動車などハードウエアの分野では、日本は依然として優位に立っている。ただ、その牙城でさえ攻撃の矢面に立たされている。ハードを動かすのにソフトの役割が極めて重要になってきたからだ。
岡野原氏と「ディープラーニング(深層学習)」の話に入ろう。ディープラーニングと呼ばれるソフトウエア技術は、人間の脳のように、学習の各段階で人の手を加える必要なしに自ら学ぶことができるプログラムだ。「ディープ」とは人工的な神経細胞ネットワークを指す。それは何層にも重なっており、複雑な問題に取り組むことを可能にする。
すでに米シリコンバレーではディープラーニングがもてはやされている。アルファベット傘下の米グーグルは昨年、英ロンドンに拠点を置く新興企業ディープマインド・テクノロジーズを推定5億ドル(現在の為替レートで約610億円)で買収。アップルやアマゾン・ドット・コム、フェイスブック、テスラ・モーターズもこの分野に投資している。中国の検索エンジン大手、百度(バイドゥ)は2014年、シリコンバレーにディープラーニング研究センターを設立した。
米市場調査会社トラクティカは、ディープラーニングの企業向けソフトウエアの年間売上高が2024年に104億ドルに達し、今年の1億0900万ドルから急増すると予測している。
シリコンバレーにとって、ディープラーニングは主にソフトウエアを改善させる手段で、例えばアップルの「Siri(シリ)」のような音声認識プログラムが人間の質問により自然に応じられるようにするためのものだ。
一方、岡野原氏のところに殺到する日本企業はディープラーニングに対する異なる見方を持っており、ハードウエアを改善させる手段と捉えている。日本企業はディープラーニング技術を搭載した機械が、人間の手によるよりもはるかに早く自らを改善できると信じている。そうした機械は学んだことを別の機械と共有でき、決して疲れることがないからだ。
日本の産業用ロボットメーカーで、アップルのサプライヤーであるファナックは8月、PFNと資本提携を結んだ。ファナックは最良の装置組み立て方法を自分で発見でき、他のロボットの修理まで行う機械を開発したいと考えている。
ファナックの稲葉善治社長は「ディープラーニングではPFNが世界中のどの企業よりも優れた技術を持っている」と評価。同社以外にも、トヨタ自動車は自動運転技術の開発でPFNと組み、パナソニックは監視カメラや家電などの分野でPFNの技術を活用しようとしている。
PFNは、1980年代初めにマイクロソフトが基本ソフト(OS)「ウィンドウズ」でパソコン革命の中心的存在になったように、ディープラーニングの分野で中心的存在になりたいと考えている。PFNは最近、ディープラーニング技術を実現するためのフレームワーク「チェイナー(Chainer)」を導入した。これはサードパーティのエンジニアがAIを実現するプログラムを作成できるオープンソースのソフトウエアだ。
PFNは2014年に設立された従業員30人の新興企業。今年8月時点の企業価値は1億2000万ドルで、同社は今後も独立性を維持すると主張している。競合のグーグルが持つ実質的に無限のリソースを考慮すると、PFNの挑戦はギャンブルだ。グーグルは最も優秀な人材の一部を確保し、世界標準を作る潜在力を持つからだ。PFNの幹部らによると、同社は人員不足のため、いくつかの提携案を断らなければならなかったという。また、専門家らは日本政府の新技術に対する対応の遅さが問題になるかもしれないとも語った。
東京大学の松尾豊准教授はPFNについて、「技術は一流だが、資本市場とどう向き合うかも大切だ」と話す。
福島県で育った岡野原氏がコンピューターを使い始めたのは幼稚園の時だった。小学生の時には、すでにフライトシミュレーションのプログラミングをしていた。
カーオーディオメーカーを定年退職した父親の久司さん(67)は「私自身、数学は得意でなかった。コンピューターとかプログラミングとかいったのは彼自身の才能だ」と話す。
岡野原氏は少年時代からダイアルアップ回線でパソコン通信を利用、「ブロックソーティングによる無歪みデータ圧縮」など、コンピューターサイエンスの学術文書をダウンロードしていた。これは1994年、買い物時間を待つ同氏を震えさせたリポートだ。
岡野原氏は東京大学に進学し、そこで西川徹氏と出会った。両氏はすぐに意気投合し、最終的にはPFNを共同で立ち上げた。
PFNの代表取締役社長を務める西川氏は「あのチャンスを逃したら彼ほどの天才と働く機会は二度とこないと確信していた」と話す。
PFNの取締役副社長である岡野原氏は、自動車からトースターまで幅広いアイテムがオンラインにつながるにつれて、自分の専門性が役に立つと信じている。その理由は、同氏がいわゆる「モノのインターネット(IoT)」に付随する問題を次のように認識しているからだ。
つまり、ネットにつながった機器は膨大な量のデータを生成するため、現在想定されるコンピューター能力ではそれら全てを分析したり伝えたりすることができないという問題だ。例えば、自動車センサーはネオン広告を画素単位で記録できるかもしれないが、この情報は自動車の安全運転にとっては関係がない。
同様に人間の脳も「詰め込みすぎ」という問題を抱える時があるが、関係のないものを捨て去ることを学ぶ。岡野原氏は、同じくコンピューターも何が関連するデータで、どのデータを共有すべきかについて自分で判断できるようになる必要があると語る。
これまでも数回AIは世界を失望させてきた。その一因はコンピューターの能力不足だった。ディープラーニングが世界を揺るがすにはさらなるブレークスルーが必要になる。ただ、産業技術総合研究所(産総研)人工知能研究センターの辻井潤一センター長は、AIの到来が不可避だと指摘。「日本は各産業に一流の企業をたくさん持っている。PFNはそれらを一つのチームとしてまとめる理想的なハブのひとつだ」と述べた。