「障害学」から多くのことを学ばせてもらう。 健常者の「善意」と「本音」に陰湿な「暴力」が潜んでいるからである。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 盲目のひとは、本の活字を視覚的にとらえることはできない。 しかし、本を読めないことは、数多くの不利益につながる。 点字なら読めるが、点字の本が充実していないと、生活は制限される。 1970年代には大学生たちが「読書権」を主張するようになる。やがて東京都立中央図書館をはじめ多くの公共図書館で、ボランティアの協力を得て対面朗読がはじまった。(14頁) 権利は、発見されていく。 権利は、主張されることで実現していく。 しかしながら、障害者はつねに理不尽な困難に直面させられる。 世間は障害者の権利主張をときに「ワガママ」と見なすからだ。 実際、当ブログにもその種のコメントが以前寄せられてきた。 障害者が日々を、懸命に、でも謙虚に生きているうちは評価される。 障害者がおとなしくしているうちは、世間も同情してくれる。 だが世間の許容範囲を超えて自己主張すると、「ワガママだ」と言われる。 障害者のくせに「権利」ばかり主張するな、と言われてしまう。 なぜなのだろうか? この問題を考える手がかりが著者によって鋭く提起されている。 早速見てみよう。 この社会には、誰もが共有できるはずの原理がある。 各自の「自己決定の尊重」である。 けっきょく人の自己決定を積極的に尊重しようという場合に問題になるのは、優先順位である。資源が有限である以上、誰のどのような自己決定を優先して実現するのが平等なのかを決めなければならない。(238頁) 著者はここで「効用の平等」という考え方を検討する。 仮にAさんもBさんも喉が乾いていたとする。 Aさんは持っていた水で喉を潤したが、 Bさんはそれができなかったとする。 このとき、AさんはBさんに持っている水を分け与えてやれば、 Bさんも喉の渇きを潤すことができる。 両者とも同じ満足を得ることができる。 このように両者が平等に幸福を得られることは正しいことだ、 と考えるのが「効用の平等」である。 だが、この原則ではうまくいかないケースが出てくる。 たとえばAさんとBさんがともにワインを飲みたがっているとする。 Aさんはどんなワインでもいいと言い、 Bさんはシャトー・マルゴーの95年か89年がいいと言う。 Aさんは安いワインでも満足できるが、 Bさんは高級ワインでなければ満足できないとする。 この場合、両者の要求は等しく扱われるべきなのだろうか? 水を飲みたいというような切実なニーズについては効用の平等でも話はうまくいく。しかし、生きていくうえでの切実なニーズは人によって大きく異なることはないので、「効用」というような主観的な概念をあえて持ち出す意味はない。むしろ効用は嗜好の「違い」に対応するためにこそ提案されていると解釈すべきだろう。だが、ぜいたくな嗜好とつつましい嗜好を前にして立往生してしまう。 こうして著者は「効用の平等」を斥ける。 では著者の考えはどのようなものなのだろうか? 私の考えはこうだ。多様な身体をもつ人々が、切実なニーズとともに多彩かつ平均的な嗜好をもつときに不平等が生じないように配慮する。これを「効用の平等」に対して「配慮の平等」と呼ぶことにする。(239頁) さて、この「配慮の平等」とはどのような考え方なのだろうか? まず切実なニーズへの配慮は絶対である。それがないと人は生きていけない。「絶対」というのは、実現するための費用の違いを考慮すべきでないという意味だということはいうまでもない。 切実なニーズとぜいたくな嗜好の境界線は、民主的に決める。 少なくとも特定の誰かが一方的に決めるべきではない。 たとえば、AとBには全身性障害があり、CとDはいわゆる健常者であるとする。AとCの嗜好は多彩だが平均的であり、特別つつましくもぜいたくでもない。どうしてもエベレストに登りたいという嗜好はない。どうしても海外でぼけっとしたいという嗜好もない。一方BとDは、やはり多彩な嗜好をもっており、それらのほとんどは平均的なものだが、じつは一つだけ特殊な嗜好がある。そう、エベレスト登頂への癒しがたい憧憬である。(240頁) 整理してみよう。 Aさんは、全身性障害があり、ごく平均的な嗜好しか持っていない。 Bさんは、全身性障害があり、特殊な嗜好を持っている。 Cさんは、健常者であり、ごく平均的な嗜好しか持っていない。 Dさんは、健常者であり、特殊な嗜好を持っている。 Cは自分の収入で切実なニーズを満たしつつ、自分の嗜好のなかからいくつかを選び、それらを満足させているとしよう。Dは自分のお金でエベレスト登山を実現しているとしよう。この場合AもBも、Cと同じことができるようにするのが配慮の平等である。(240−241頁) すべてのひとがエベレストに登れるようにする必要はない。 だが、平均的なニーズはすべてのひとに満たされるよう 配慮されなければならない。 これが「配慮の平等」だ。 では、これを実現するにはどうすればよいのだろうか? AとBは目下のところ働けないとしよう。まずAとBの所得保障を充実させ、CやDの所得にできるだけ近づける努力をする。CとDはなにほどか拠出しなければならない。だが拠出が大きすぎると不満に思うのはしかたのないことだ。そこで話し合ってお互いに納得できる額の拠出を模索することになる。 水を飲むことは贅沢な嗜好だろうか? まさか。 食べ物を食べて飢えないようにすることは贅沢か? まさか。 障害者がバスに乗るのは、贅沢な嗜好だろうか? まさか。 そんなはずはあるまい。 障害者が映画館で映画を観るのは贅沢な嗜好だろうか? まさか。 きわめてつつましい願望にすぎないだろう。 だから、バスや電車、デパートや映画館などは、 すべてのひとが利用できるように「配慮」するのが当然である。 これがバリアフリーである。 この程度の当たり前が、ついこの前まで日本では当たり前ではなかった。 どうしてなのだろうか? 「配慮を必要としない多くの人々と、特別な配慮を必要とする少数の人々がいる」という強固な固定観念がある。しかし、「すでに配慮されている人々と、いまだ配慮されていない人々がいる」というのが正しい見方である。多数者への配慮は当然のこととされ、配慮とはいわない。対照的に、少数者への配慮は特別なこととして可視化される。(242頁) ここからが本書の重要なところだ。 わたしたちの多くは、こう考える。 わたしたちは、仕事もしているし、普通に生活できている。 でも、世の中には「特別な配慮」を必要とするひとたちがいる、と。 そのときひとびとが思い浮かべるのは高齢者や障害者である。 だが、この考え方は根本的に誤りである、と著者は言うのだ。 世の中に「配慮を必要としないひと」と「特別な配慮が必要なひと」が いるのではない。 そうではない。 「すでに配慮されているひと」と「まだ配慮されていないひと」がいるのだ、 と著者は言う。 たとえば、階段とスロープを比較してみよう。なぜ階段は配慮でなくスロープは配慮なのか。試しに階段を壊してみればよい。階段がなくても二階に上がれるのは、ロッククライマーと棒高跳びの選手ぐらいのものだ。だったら階段だって配慮ではないか。 多くのひとは、自分たちが「すでに配慮されている」ことに無自覚だ。 駅構内にスロープやエレベータが設置されると、 車椅子のひとのための「特別な配慮」だと思ってしまう。 だが、階段があってのぼりおりできるのも、「配慮」ではないのか? 車椅子用のトイレが設置されると、「特別な配慮」と感じる。 だが、何の不自由もなくトイレを使えたひとにとって、 トイレがあったこと自体がすでに「配慮」なのではないのか? 公衆トイレやデパートのトイレに助けられたひとも少なくないはずだ。 わたしたちは、自分への「配慮」はあって当然と見なすが、 障害者への「配慮」は「特別なもの」と見なす。 わたしたちが安全に道路を渡れるのは、信号機が設置されているからだ。 これも「配慮」である。 なのに、音声付き信号機が設置されると、 これを「視覚障害者のための特別な配慮」だと思ってしまう。 「特別な配慮」と見なすひとたちは、 自分たちが「すでに配慮されている」ことに無自覚なのである。 「特別な配慮」と見なすひとたちは、ジコチュウなのだ。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ただし、ここで注意しなければならないことがある。 この話は健常者・障害者にだけ当てはまるわけではないということだ。 いくらでも類似の事例を思い浮かべることができるのではないか? 高齢者の医療費補助は高齢者のための「特別な配慮」だ、と思い込む。 生活保護は生活できないひとのための「特別な配慮」だ、と思い込む。 母子加算は母子家庭のための「特別な配慮」だ、と思い込む。 優先席は高齢者や障害者のための「特別な配慮」だ、と思い込む。 女性専用車両は女性のための「特別な配慮」だ、と思い込む。 駅などの英語・中国語・韓国語の表示は 外国人のための「特別な配慮」だ、と思い込む。 これらを「特別な配慮」と感じるひとは、 自分が「すでに配慮されている」ことに無自覚なのだ。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 2006年、ビジネスホテルの「東横イン」で、 障害者用の設備を違法改造していた事件が発覚した。 2003年、熊本県の黒川温泉「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」で、 ハンセン病元患者らが宿泊を拒否されるという事件があった。 こうした事件も、「配慮の平等」という観点から考え直すとよい。 そして、規制緩和論者・市場主義者の正体を見つめ直すとよい。 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ さて、「配慮の平等」という考え方がなぜ重要なのか? それは、障害者の権利主張を「ワガママ」として抑圧させないためである。 マイノリティの権利主張を「ワガママ」と見なさないためである。 誰もが配慮されて当然のことは、配慮されねばならない。 近年、在日外国人を「特権」を享受するひとと表象する極右が台頭しているが、 極右のヘドが出るような自己中心性がよく分かるのではないだろうか? 当ブログにかつて意地悪なコメントを書き込んできたひとも、 障害者による自己主張を「ワガママ」と見なしていたわけだが、 自分だけは「配慮されて当然」と考えていたのではないだろうか? 著者のレトリックがなかなかうまいと感じるのは、 議論の前提に「各自の自己決定の尊重」を置いているところだ。 つまり、この前提を共有するなら、 誰もが「配慮の平等」を認めざるをえなくなるような仕掛けになっているのだ。 フェミニズムを揶揄するひと。 こうしたひとたちは、自己中心的で卑劣なひとたちである。 わたし自身は、じつは、 この「配慮の平等」という考え方は、 真の民主主義にとっては欠陥があると考えている。 だが、いまだにマイノリティへの施策を「特別な配慮」と見なす ひとが多い日本では、意味のある考え方だとも思っている。 本書は、ぜひ多くのひとに読んでもらいたい本である。 |
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◆zennnoさま |
影丸 2012/07/28 13:55 |
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