1989年グラミー賞:ラップボイコット
By Bill Adler
もはやどんなものでもKanye Westの逆鱗に触れることができる。大抵の場合、私はなぜこの偉大な人物がそんな些細なことでそこまで怒るのか理解に苦しんでしまうのだが、グラミー賞が何度も彼にメルトダウンを起こさせてきた理由については… 私も理解できる。
グラミー賞はこれまで57年に渡り開催されてきたが、常にアーティストたちの怒りを買ってきた。今回はWayback Machineを遡り、第31回グラミー賞を振り返ってみたい。この年からグラミー賞にはラップ部門が創設されたのだが、ノミネートされた5組のうち、実に3組が出席をボイコットした。
ノミネートが発表されたのは1988年の年末だった。当時私はDef Jam RecordingsとRush Artist Managementの共同オフィスで広報担当として働いていた。ノミネートされたアーティストのうち、LL Cool J(「Goin’ Back to Cali」)とDJ Jazzy Jeff & the Fresh Prince(「Parents Just Don’t Understand」)の2組が我々の事務所に所属しているアーティストで、残り3組はSalt’N’Pepa(「Push It」)、J.J. Fad(「Supersonic」)、Kool Moe Dee(「Wild Wild West」)だった。我々は興奮していた。グラミー賞は名誉あることだったからだ。これ以上の賞はないだろうと感じていた。
“12年間学校へ通った俺たちに卒業証書を壇上で渡した瞬間、中央を歩いて戻るなって言うわけさ”
− Will Smith
2月のグラミー賞のテレビ中継がどうなるかについて分かってきたのは、新年を迎えてすぐの頃だった。グラミー賞のプロデューサーは、Will Smithにグラミー賞についてのちょっとしたラップを披露したあとで、他の部門のプレゼンターを務めて欲しいと頼んできた。と同時に、我々はラップ部門の授賞式がテレビ中継されないことを知った。これが我々にとっての「カニエ・モーメント」だった。我々は驚き、怒った。なぜ挨拶するや否や我々をディスることができるのか? この点についてはWillが見事に要約している。「12年間学校へ通った俺たちに卒業証書を壇上で渡した瞬間、式場の中央を歩いて戻るなって言うわけさ」
これは私が嫌と言うほど知っていることだった。私は1984年から自分たちの抱えるアーティストたちの知名度を高めようと戦ってきたが、常に苦しい戦いに感じていた。ラップはSugar Hill Gangが1979年の秋に世界的なヒット「Rappers Delight」をリリースした瞬間から幅広い層に知られるアートとなり、音楽メディアの大半からも暖かく迎え入れられた。しかし、いわゆる “主流メディア” の連中はこれが何なのか理解できていないようだった。
私は1988年の春にまさにこの点についてCNNと苦い戦いをした経験がある。彼らはニュース番組内の5分間の特集の一部として、Russell SimmonsとLL Cool Jにインタビューをしたいと我々のオフィスに連絡を取ってきた。私はCNN側のフィールド・プロデューサーに協力しようとしたが、すぐに彼女のあからさまに無礼な態度に嫌気が差した。そして彼女の制作する番組はむしろアーティストを傷つけるのではないかと心配した私は、彼女の上司に電話をした。その時の会話は、その番組が放映されたあとにその上司に宛てて私が書いた手紙に次のように記録されている。「あなたは『心配ないですよ。気に入りますよ』と言いましたね。私が5分という時間はこの大きな現象を正しく語るにはあまりにも短すぎると反対しましたが、あなたはテレビの5分間は長いと言い、再び『心配ないですよ。気に入りますよ』と言いましたね」
当然ながら、私はその完成した番組が気に入らず、その理由を手紙で事細かく説明したというわけだ。しかし、私を何よりも滅入らせたのは、米国のテレビの視聴者にはまだラップに対する手ほどきが必要だと言いながら、それをするには5分で十分だという彼らの見下した態度だった。何だと言うんだ! しかも1988年だというのに! 私はその手紙で「ABCの『20/20』(ニュース番組)が1981年にラップについてもっと長く、そしてもっと知的な番組を制作していたという事実をどう説明しますか? 当時の方がよっぽど手ほどきを言い訳にする理由があったはずです」と記し、「また、BBCが既に90分のスペシャル番組を放送し、ドイツのテレビ局も45分の番組を制作しているのはどう説明しますか? Essence TVも最近15分間の2部構成の番組を制作していますよ」と続けた。
完全にエンジンがかかってきた私は更に「言わせて頂ければ、あなたの貴重な時間の中で少なくとも5分間を頂くに値するラップ関係の話は無数に思いつきますよ。Jazzy Jeff & the Fresh Prince、Eric B & Rakim、LL Cool J、Stetsasonicなどの個々のプロフィールだけでもその価値はあります。全員が人気のあるスターなのですから」と続けると、今度は方向転換をして、ラップをひとつの現象として捉えたいくつかのストーリーも提案した。「80年代のBerry Gordyと呼べるような黒人が経営し、この攻撃的な新しいロックンロールで大金を生み出しているマネージメント会社Rush Managementにまつわるストーリーがあれば、女性のラッパーたちのストーリーもありますし、白人のラッパーのストーリーもあれば、LAのラッパーについてのストーリーもあります。また、ロンドンで盛り上がっているラップシーンのストーリーもあれば、ナンシー・レーガンとジェシー・ジャクソンのような著名人に求められているラッパーにまつわる政治的なストーリーもあります。そして、若者たちにこの停滞する米国からの逃げ道としてラップを始めさせることになった、先述したラッパーたちのサクセスストーリーもあります」
この手の企業の鈍感さは、当時のヒップホップシーンに関わっていた人たちは嫌になるほど知っていた。それで我々はグラミー賞をボイコットすることに決め、1989年2月頭にその趣旨を発表した。WillとJeff(Willはグラミー賞でのパフォーマンスもキャンセルした)、LL Cool J、そして我々がマネージメントもレコーディングも担当していなかったSalt’N’Pepaがこのボイコットに参加した(彼女たちはHurby “Luv Bug” Azorがプロデュースし、Eddie O’OughlinのNext Plateauと契約した)。Saltの参加は、自分の友人たちの期待を満足させられないのではないかという気持ちから来たもので、彼女は「友人全員に『テレビで見るのを待ちきれないわ』、『何を着ていくの?』って訊かれたわ」と言っていた。しかし、Kool Moe DeeとJJ Dadはボイコットへの参加を拒否した。グラミー側はWillが抜けた穴をMoeが埋める気があるかどうかを知りたがったが、当然彼はその役を買って出た。
“僕たちは彼らがラップ部門を創設したことに興奮しているし、ノミネートされて嬉しく思っている。でも、僕たちにはそれ以上がふさわしい”
− Will Smith
正確なところは分からないが、どうやら私はボイコットを表明するプレスリリースを1989年2月9日木曜日に発表したようだ。この発表はグラミー賞の政治面についての活発な議論を誘発し、その議論は賞のテレビ中継が終わっても続いた。この翌日、『Los Angeles Times』紙は、グラミー賞がラップを「ゲットー視しており」、「継子のように扱っている」という私のコメントを掲載した。一方、コメントを求められたグラミー賞側は冷静に「これは数字的な問題だ。76部門もあり、中継は12部門しかできない。64部門には不満が残る」と返していた。
正直に言えば、問題は数字だけではなかった。『New York Daily News』紙のDavid Browneは、グラミー賞の歴史を多少振り返りつつ、グラミー賞は前年の秋に新代表Michael Greeneを迎えたばかりの段階で、「最優秀ラップ・パフォーマンス賞」、「最優秀ブルーグラス・アルバム賞」、「最優秀ハードロック/ヘヴィーメタル・パフォーマンス賞」と3つの賞を新設したが、これは「長年真面目な存在だったグラミー賞がヒップになっている」ことをアピールするためのデモンストレーションだったと書いた。それでもなお、グラミー賞の人間たちはラッパーたちだけではなくヘヴィーメタルの関係者も怒らせることになった。なぜならこれにより、彼らは最優秀ロック/ポップ部門で競うことを許されなくなったからだ。
グラミー賞側はBrowneのこの意見を粗探しだと切り捨てたが、Browneは、グラミー賞は以前から方向性を見失っているとし、「彼らは一般大衆を取り込むために方向性を見失った。特にここ5年はそうだ。U2は1987年に『The Joshua Tree』で最優秀アルバム賞を受賞したが、これは1978年にA Taste of HoneyがElvis Costelloを退けて最優秀新人賞を受賞した時、または素顔を公開していなかったCristopher Crossが1980年にあらゆる主要部門を同時受賞した時には遠く及ばない」と続けている。
グラミー賞のテレビ中継当日、我々はLAで記者会見を開き、メディアに直接説明することにした。WillとJeff、Salt’N’Pepa、そして彼女たちののDJであるSpinderella、Public EnemyのChuck DとFlavor Flav(彼らは前年夏に『It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back』をリリースしていた)、Slick Rick(前年11月に『The Great Adventures of Slick Rick』をリリースしていた)、Kid’N’Play(Salt’N’Pepaのレーベルメイト)が同席した。Willは「僕たちは彼らがラップ部門を創設したことに興奮しているし、ノミネートされて嬉しく思っている。でも、僕たちにはそれ以上がふさわしい」と発言した。そして私がMalcolm Xの名言を引用して、「ちゃんとした食事をさせてもらえるまでは、自分が食事をしているとは言わない」と続くと、Flavorもノミネートされなかったにも関わらずその場に加わり、「The Slammies」と非難して沸かせた。
グラミー賞の中継自体は予定通り行われ、Karyn WhiteがR&B部門をいくつか発表する前、Kool Moe Deeがラップをパフォーマンスした。そのラップは次のような内容だった。
On the behalf of all emcees
My co-workers and fellow nominees
Jazzy Jeff, JJ Fad, Salt’N’Pepa and the boy who’s bad
We personify power and a drug-free mind
And we express ourselves through rhythm and rhyme
So I think it’s time that the whole world knows
Rap is here to stay – drummer, let’s go!
すべてのMC、俺の仲間とノミネートされた奴ら
Jazzy Jeff、JJ Fad、Salt’N’Pepa、そしてあの悪ガキを代表して言うぜ
俺たちはパワーとドラッグフリーの精神を体現する
リズムとライムで自分たちを表現するのさ
世界が知るときが来たんだ
ラップがもう根付いてるってことをさ
行くぜドラマー!
この夜が終わる前の段階で、WillとJeffは、すべてのラッパーの代表としてのグラミー賞ボイコットと最優秀ラップ楽曲賞の受賞を見事に両立させたと言われるようになっていた。そしてその晩一番の話題となったアフターパーティが、LAのクラブCat & Fiddleで『Yo! MTV Raps』が主催したアンチグラミー賞を掲げるビッグパーティで、ボイコットをサポートしていたあらゆるラッパーたちが集まった。厚顔なKool Moe Deeも堂々と姿を見せていた。
このパーティの最高の思い出は、自身の名前がタイトルになっているビジネス雑誌を創刊した億万長者Malcolm Forbesがサプライズゲストとして一緒に映った写真だったのかも知れない。彼はこのパーティにバイクで登場した。なぜ彼は興味を持ったのだろうか? 恐らくForbesは若いラッパーたちのライフスタイルが気に入ったのだろう。Michelangelo Signorileが記したところでは、後年のForbesは、「Boeing 727のプライベートジェット、大量のバイク、40エーカー(約16万㎡)の豪邸、熱気球レース、そしてエリザベス・テイラーをはじめとする世界的な美女を連れての顔見せなど、世界を股にかけた贅沢な生活を好むことで知られていた」ようだ。
実際、その晩のラッパーたちとForbesは、お互いを尊重し合う小さな社会を形成していた。『The Source』誌の3月号には「Who Gives A ** About a God-Damn Grammy?」(グラミー賞を気にする奴なんているか?)という見出しと共に、『Yo! MTV Raps』のプロデューサー、Ted Demmeがボイコットの経緯とアフターパーティの様子を書いていた。その記事にはIce-T、Fab Five Freddy、セーター姿のMalcolm Forbes、そして宝石に身を包んだSlick Rickの写真が掲載されており、その姿は明らかに団らんを楽しんでいた。
翌日の新聞各紙は、前日の我々の記者会見についての記事を掲載した。『Los Angeles Times』紙は「受賞は本当に嬉しいけど、もっと喜べていたと思う。授賞式が中継されなかったことが、受賞の喜びを損なってしまったね」というWillの言葉を掲載した。また同紙はボイコットを支持したがLAには来なかったLL Cool Jにも連絡を取っており、LLの「ボイコットについては何も言うことはないよ。俺が望んでいる形で行われた」というコメントと、Kool Moe Deeのボイコット拒否についての「それぞれ個人の考えがあるからね」というコメントも掲載した。
一方、Moe自身はかなりあけすけな態度で、『The Times』誌の取材に対して「あるマネージメント会社がこのボイコットを始めて、マスコミに伝え、ラッパー全員を参加させるように仕向けたのさ。これは間違っているね。彼らは人種問題に結びつけようとしていた。だが俺は、グラミー賞に参加しないことはネガティブな行動だと感じた。こぼしたミルクを見て泣いているみたいに思えたのさ」とコメントすると、『Los Angeles Herald Examiner』紙に対しては「これは本当のボイコットじゃないね。名前は伏せるが、あるマネージメント会社が始めたことさ。ボイコットしているラッパーたちは自分たちの意見がどんなものなのかさえ分かっていなかった。LL Cool Jに訊ねたら、本人は何を言っていいのかさえ分かっていなかったよ。こういう小さなことに嫌気が差す人も中にはいるって話だが、俺は問題なかったよ」とコメントした。また、『Los Angeles Daily News』紙には「グラミー賞がラップ部門を放送しなかったことの責任の半分は、ラッパーのこれまでのイメージにあるね。本当のラップシーンとはかけ離れている。世間は怖がっているんだ。ラッパーたちはステージに上がる度に、自分の股ぐらを掴んだり、粗野な行動をするんじゃないかってね。米国のラップはそれ以上の存在だってことを示す時が来たんだと思う」とコメントし、『Black Radio Exclusive』誌のDavid Nathanに対しては、その粗野な行動を取るラッパーを次のように名指しで批判していた。「俺たち全員がゴールドとスニーカーを好むわけじゃないし、そういうイメージはゴメンだね。American Music AwardsでAl B. Sure!に賞を渡す時に自分の股を掴んだLL Cool Jとか、ああいうラッパーに対するネガティブなイメージを俺は変えたいんだよ」
さて! どこから始めよう?
まず、「マネージメント会社は人種問題に結びつけようとしていた」というMoeの指摘は真実ではない。RushとDef Jamの中で、グラミー賞側の決定を人種問題だと指摘した人はいない。
そして、「LL Cool Jに訊ねたら、本人は何を言っていいのかさえ分かっていなかった」も真っ赤なウソだ。ボイコットの直後に私がLL Cool J本人にこの件について訊ねた時、彼はMoeとは一度も話していないと言っていた。LL Cool Jがレコーディングを開始した直後からお互いにいがみあっていたことを踏まえれば、この食い違いは納得が行く。数年前の1987年、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった若きLL Cool Jを恐れていたMoeは、自分のアルバム『How Ya Like Me Now』のアートワークで、LL Cool Jのトレードマークだった赤いKangolのハットをジープの下敷きにしていた。また、このグラミー賞の騒動が起きる前までに、2人はお互いをディスるトラックを最低3トラックずつはレコーディングしていた。
明らかにMoeはグラミー賞にまつわる一連の騒動を、LL Cool Jを攻撃して自分がのし上がる新たなチャンスだと捉えていた。LL Cool Jと話したというウソと、グラミー賞の数週間前のAmerican Music AwardsでのLLの振る舞いに対する根拠のない非難に加え、Moeはグラミー賞のラップでも彼を攻撃している。もう一度ここに書いてみよう。
On the behalf of all emcees
My co-workers and fellow nominees
Jazzy Jeff, JJ Fad, Salt’N’Pepa, and the boy who’s bad
すべてのMC、俺の仲間とノミネートされた奴ら
Jazzy Jeff、JJ Fad、Salt’N’Pepa、そしてあの悪ガキを代表して言うぜ
「The boy who’s bad(あの悪ガキ)」 − これは1987年の夏に「I’m Bad」を大ヒットさせていたLL Cool Jに他ならない。仲間のひとりで、同じ部門にノミネートされた人間の名前を出さずに「ガキ」と表現するほど心が籠もってない行為はない。
Moeの個人的な癇癪よりも驚きだったのは、彼がある程度の数の10代の黒人女性たちから強力なサポートを受けていたという点だ。『Word Up!』誌(当時のティーン雑誌)のGerrie Summers(彼女はこの論争に関して中立の立場を取るとしていた)は、1989年7月号(同年4月発売)の自身のコラムで、Kool Moe Deeへの対抗運動が存在すると断言している。私はこれは虚言だと見ている。私はGerrieの記事を読むまでそのような存在を訊いたことがなかったし、もしそれが存在していたとしても、RushやDef Jamは一切関係ない。ちなみに、Gerrieは「Moeを中傷する人たちは、Moeのことを宣伝と成功のためにグラミー賞に出演した裏切り者だと考えている」と続けていたが、この点について彼女の見解は正しい。そして、自らを中立の立場としていたが、このコラムの最上部に自分の肩に手が回されているMoeと一緒に写っている写真を掲載した彼女はこのコラムを次のように締めくくっていた。「ラップシーンに存在するパワフルで影響力のあるホメイニのような人たちの信念に私たちが同意できなかった場合、私たちは彼らに沈黙を強いられても良いのでしょうか? 考えてみてください」
当然ながら、Gerrieが文中で具体的に名前を示さなかった「ホメイニのような人」は私のことだ。これはこの記事を読んだあとに私が彼女に電話をした時に彼女自身が認めた。その電話のあと、私はGerrieに宛てにMoeのネガティブなコメントが書かれた記事を集め、次の手紙を添えて封筒にして送った。「我々がメディアに対して言った内容は、Moeには自分の好きなようにできる権利があるということでした。しかし、Moeは口を開けば、ボイコットについて『ネガティブな行動だ』とコメントしていました。信じて頂きたいのですが、我々のアーティストたちにはそういう行動を取ったMoeを非難する用意がありました。ですが彼らはそうしませんでした。なぜなら私がそうアドバイスしたからです。私はこの一連の騒動で自分をヒーローに仕立てるつもりはありません。私はただ単純に、多くの人たちが感じていたグラミー賞に対する怒りをまとめる役を務めただけです。ですが、同時にその役割が自分をホメイニのような人物にするとも思っていません」
とはいえ、これは大昔のことで、小さな世界のちょっとしたいざこざに過ぎない。誰もが知っている通り、Fresh PrinceことWill Smithはその後ハリウッドで映画スターとして大成すると同時に、1999年には元の道を引き返し、主演映画『ワイルド・ワイルド・ウエスト』のタイトルトラックにこのトラックのオリジナルを歌っていたMoeをフィーチャーした。また、2015年は、LL Cool Jが4年連続でグラミー賞のホストを務めた年になった。
しかし、中には変わらないものもある。最も顕著なのは、グラミー賞が未だにラップミュージックファンを怒らせているということだ。今年のグラミー賞が放映される2日前、ウェブメディア『Complex』は、今年が初のラップ部門から25周年を迎えることに狙いを定め、「最悪の式になると思う。なぜならグラミー賞がラップをどうでも良いと思っているのは明らかだからだ。しかし、私たちが悲観的になっている一番の理由は、昨年Mackelmoreがラップ4部門のうち4部門を受賞したことにある。これはシアトル出身のこのラッパーのグラミー賞の受賞数が、Tupac、Biggie、Nas、DMX、Busta Rhymes、KRS-One、Rick Ross、Snoop Dogg、Mos Def、Run-DMC、Public Enemy、Big Pun、Jeezy、Ja Rule、Kendrick Lamar全員分をまとめた受賞数よりも上回っていることを意味する」と書かれた記事を発表した。
Kanye Westにはもっと大きな仕事があった。彼は今年のグラミー賞で、ラップ部門ではなく最優秀アルバム賞に狙いを定めると、BeyoncéではなくBeckの受賞が決まった瞬間、あの行動に出た。グラミー賞は変わったのかも知れないが、我々はKanye Westがどこからやってきた人物なのかを知っている。