小津安二郎に映画作りを学ぶーーあるいは宙に吊られた視線の行方
あなたは映画監督である。期日までに自主映画の撮影を終えなければならないが、まだ映画のクライマックスをなす恋人同士の口論のシーンを撮っておらず、しかも出演俳優二人のスケジュールが揃って合う日はあと一日しか残されていない。だが、慌てるには及ばない。映画とはそこに不在の二人をいとも容易く同居させることのできるミディアムだからである。
「切り返し」と呼ばれるありふれた映画技法がある。切り返しとは、会話シーンなどにおいて発話者たる二人の登場人物を交互に映し出してつなげる編集様式のことである。滑らかな切り返し編集は、映画観客が登場人物たちの視線のリレーに参与し、感情移入することを可能にする。これはハリウッド映画が視線を制度化するために生み出した最大の発明とも言える装置であり、サイレント期を通して洗練されていったそれは、30〜50年代の古典的ハリウッド映画の黄金時代を支え、スタジオ・システムの崩壊を経た60年代以降も、今日に至るまで世界中の映画で使われつづけている。あなたが今年中に見ることになる劇映画があと200本あるのか300本あるのかは知らないが、少なくともそのうち切り返しが一度も使われていない映画が何本あるかは正確に言い当てることができる。0本である。
だからあなたも自分の映画で安心して切り返しをおこなえばよい。あなたが撮らなければならないのは恋人同士の口論だった。あなたはそれぞれの俳優が都合のつく日に、それぞれの台詞を単独の画面で撮って、それをあとからつなげればいいのである。撮影現場では文字通り延々と一人芝居が繰り広げられることになるが、映像の上ではきちんとつながっているように見えるのだから心配はいらない。また、会話シーンの切り返しの場合、手前にいるはずの聞き手の身体の一部(だいたい肩から腕にかけて)を画面内に収めることが多いが、その程度であれば同じ衣装を着せたスタッフでもごまかせるだろう。あとは二人が揃って参加できる唯一の日に、引きでツーショットの画(マスター・ショット)を撮って、編集の際にしかるべき位置に挿入すれば、二人は常に一緒にいるかのように見える(その際、衣装や髪型、メイク等は撮影日が変わっても正確に一致させておくように)。
そうしてできあがった映像は、なるほど確かに凡庸な印象を与えるものではあるだろうが、しかしこの期に及んで芸術家を気取っても仕方あるまい。たとえば黒澤明のような超望遠レンズと複数台カメラの使用によるマルチカム撮影に倣うことなど予算の問題ではなから不可能であるし(『天国と地獄』[1963年]を見よ)、溝口健二のように長廻しを使って口論が持続する場の時空間的緊張感を総体的に捉えることもかなわない(『お遊さま』[1951年]を参照せよ)。あるいは川島雄三のように超絶技巧を凝らしたカメラ・アングルを駆使する余裕も、残念ながらあなたには残されていない(『しとやかな獣』[1962年]はその最高の達成である)。ただ、このような状況下にあってなお、もしあなたが参照できる監督が一人だけいるとすれば、それは小津安二郎である。
小津はまずもって破格の映画監督である。しかしながら、同時にその破格を一つずつ積み上げた結果、空前絶後の詩的凡庸に到達してしまった稀有な映画作家でもある。この凡庸さのうちにこそ、あるいはあなたが入り込む余地が残されているかもしれない。
まるで自らの映画をなぞるように正確に還暦の誕生日に死没した小津(1903年12月12日〜1963年12月12日)は、なによりその律儀さにおいて世界映画史上の一神話となった。北鎌倉円覚寺に眠る小津の墓碑銘は「無」一文字であり、それは十干十二支を一巡りしてゼロに還っていった芸術家にこれ以上なくふさわしいものに思われる。通常、作家の伝記的事実など一顧だにしない蓮實重彦でさえ、この挿話には折に触れて言及している。何といっても小津が亡くなったまさにそのとき、蓮實はフランスでもう一人の12月12日生まれの芸術家の研究に勤しんでいたのだった。したがって、「後期の小津安二郎とは、たんに一作家の一時期であるにとどまらず、世界の映画史そのものがそれを前にして戸惑い、途方にくれもする文字通り宙に浮かんだ時間にほかならぬ」(註1)と述べる蓮實が、その小津論の中でしきりにフローベールの『紋切型辞典』に言及しようとするのは、いわば個人史的必然なのである。
じっさい、小津の切り返しは世界映画史を途方にくれさせる。ここでは映画史を代表してフランソワ・トリュフォーにその戸惑いを証言してもらうことにしよう。一般的な切り返しでは、カメラは向かい合った人物を常に同じ側から捉えることになっている。すなわち、人物Aと人物Bの間に想像上の直線(イマジナリー・ライン)を仮定した場合、切り返しの際にカメラがそのラインをまたぐことはない。こうすることで、編集して二つのショットをつなげたときの視線の一致(アイライン・マッチ)が保たれ、カットしているにも関わらず観客にシームレスな印象を与える。ところが小津はこの映画作りの大原則をあっさりと無視し(「映画の文法」破り)、カメラを人物のほぼ正面に置き、ほとんどレンズを覗き込むようにしてしゃべらせている。トリュフォーはこのような小津の編集に対して「にせの切り返し」あるいは「奇妙な切り返しまちがい」の印象を受けると述べ、「見る側としては、一人の人間の視線を追っていくと、実はそこには相手がいないのではないかという不安に襲われてしまう。カメラが切り返すたびに、そこにもう対話の相手がいないのではないかという……」 と、その困惑ぶりを表明している(註2)。
その一方で、カメラを覗き込む登場人物たちがまるで自分に向かって話をしているかのように錯覚し、親しみを覚える観客もまた存在している。佐藤忠男は「小津は、彼の映画のすべての登場人物を、観客とこのうえなく親しい関係におこう」とし「観客に、映画の中にすっかり入りこんでもらって、映画の中の人物たちと家族や友達のような気持ちになってもらう」 ことを目指したのだと分析しており(註3)、また、加藤幹郎は小津のこのような演出を通して「観客は小津映画の登場人物のつつみ隠しのない精神の透明さに心打たれる」 ことになると指摘している(註4)。
おそらく、トリュフォーの戸惑いと佐藤の親しみとは、相補的な関係にあるものである。映画内の登場人物同士が互いに見つめ合っていないのだとしたら、そのとき、その視線の対象がスクリーンのこちら側にいる観客であるというのは一つの答えとなりうる。また、登場人物たちが観客をこそ見つめているのだとしたら、当然、映画内では視線は交差していないということになる。むろん、ほとんどの観客はそのような疑問を突き詰めて考えたりはしない。大方の観客の態度は、このような無限後退を招きかねない解釈のごく初期の段階に曖昧にとどめおかれることになるだろう。不自然な切り返しに対して当初は違和感を覚えたとしても、それが小津映画のルール(「内在的規範」[註5])であることをいったん認めさえすれば、そのようなものとして自然と受け入れられるようになる。また、その一方で、じっさいにはありえないことだと理解しながらも、スクリーンの中の人物があたかも自分に語りかけてくるような感興をどこかで覚え続ける観客も、依然として存在しつづけるだろう。「そんなことはちゃんとわかっている、でもやはり……」である。
このような未決定状態に身を置き、宙吊りにされた視線の遊戯を曖昧に楽しむ限りにおいて、小津はきわめて安全な作家である。しかしながら、そこから一歩進み出て、あえて視線の対象を確定しようとするとき、観客は、一転してそのほとんど剥き出しといってもいいほどの暴力性に晒されることになる。じっさい、それは致死的な暴力である。
小津の後期の映画テクスト『東京物語』(1953年)が有する致死性の詩情はこうした文脈において理解されなければならないものである。英国映画協会(BFI)が主宰する『サイト・アンド・サウンド』誌上の投票(2012年)で遂に世界一の映画に祀り上げられてしまった本作だが、物語自体は例によって三行で要約できる単純なものである。尾道に暮らす老夫妻は、東京で独立して生計を営んでいる子どもたちのもとを訪れる。子どもたちに冷遇された夫妻が尾道に戻ると、ほどなくして老妻が亡くなってしまう。これだけの話である。今日、本作を見ようという観客の大半は事前にこのあらすじを知っている。したがって、そうした観客の映画体験というのは「あらかじめ死ぬことがわかっている老妻が実際に死んでしまうまでの宙吊りの時間」をともに生きるということにほかならない。老妻はやがて死ぬ。では、いかにして? 子どもたちの視線から排除されることによって、である。
映画冒頭のシークェンスを分析してみよう。ここに見られるのは世界映画史上、最も冷酷な視線表象の一つである。オープニング・クレディットの後、五つの風景ショット(いわゆる小津の「エンプティ・ショット/空[から]のショット」)につづいて、室内に並んで座っている老夫妻(笠智衆、東山千栄子)の姿がツーショットで映し出される。画面手前右側に老父、その奥の少し左側にずれた位置に老妻が座している。ここで気をつけなければならない空間設計上のポイントは、二人が揃って画面右側を向きながら荷造りをしているという点にある。なぜ夫妻がこのような位置関係で提示されなければならないのかということは、このあとのショット連鎖を確認すれば判然とする。この次にくるのは妻に話しかけようとして、妻の方に顔を向ける老父のウエスト・ショット(人物の腰から上を捉えたショット)である。カメラはここでツーショットの位置とは反対側に移動し(180度向きを変えて)、老父の顔を正面から捉える。一般的な映画であれば、これに応じて顔を上げる老妻の単独のウエスト・ショットを持ってくる(すなわち、切り返しを行う)ところなのだが、実際には二つ前と同様のツーショットにつながれている。
それでは、なぜ老妻のウエスト・ショットではなくて、ここに老夫妻のツーショットがこなければならないのか。映画を見ていれば、それがフレーム・インしてくる末娘を同一ショット内で捉えるための措置であったことがわかる。画面内にあとから入ってきた末娘もまた、画面の一番奥に座って、作業を始める(ツーショットからスリーショットへ)。このとき画面上には手前から順に老父、老妻、末娘が座っており、さらに画面の右側から見れば老父、老妻、末娘の順に少しずつずれて座っていることになる。ここで気になるのは、一番奥に位置している末娘がその手前に座っている老妻のせいで半身を隠されてしまっている点であり、それどころかこの同じショット内には末娘の顔が完全に見えなくなってしまう瞬間さえあるという点である。むろん「そんなことは映画にはよくあることじゃないか」と別段不審に思われない向きもあるだろうが、これは卓上の湯のみ(私物の高級品)の位置に数cm単位でこだわって、役者を入れる前のセット準備に数時間を費やすような作家の映画なのである。そうした例外的な監督が、ここではなぜあえて有名女優(香川京子)が母親の陰になるような演出を施さなければならなかったのか。じっさい、ここに母親がいなければ、その空間は彼女が独占できたはずなのである。ここに母親さえいなければ……。
あたかも観客のそのような祈りが通じたかのように、出がけのあいさつを口にした末娘に単独のウエスト・ショットが与えられる。こうして若き人気女優の顔は無事スクリーン上に晒され、観客は自らの視線を満足させる(彼女の顔は観客席と正対して映し出されることになる)。次にそれに応える老父のウエスト・ショットが当然のように続き、二人の間にはこの会話中さらに二度の切り返し編集が施されている。ここでも登場人物がカメラの方を向いてしゃべるという小津独特の演出がなされてはいるが、それを除けばごく自然な編集である。問題はむしろ、それが自然すぎる点にこそある。なぜ老父と末娘の間では同一のショット・スケール(ウエスト・ショット)による切り返しがかくもあっさりと成立してしまうのか。最初からこの場面にいた老妻にはまだ一度もウエスト・ショットを用いた切り返しがなされていないにも関わらず、である。しかも、三人の位置関係上、老父と末娘の間には老母が座っているはずなのに、老父と末娘の間で直接切り返しが行われることによって、まるで老母の存在がすっかり消されてしまっているかのような印象を受ける。もしかすると、老母は既に死んでおり、他の人間には見えていないのではないか……。目ざとい観客の中にはそのような疑念を抱く者すらいるかもしれない。
むろん、この時点では老母はまだ生きている。その証拠に、末娘が出かけていったあと、ようやく老父と老母の間でウエスト・ショットの切り返しが行われている。さらに、たまたま通りかかった隣人が画面最奥部の窓から話しかけてくるのに応じて、ここにも老母と隣人の切り返しが見られる。老母は映画内の登場人物たちと、間違いなく交流している。次のシークェンスでは、老夫婦は無事に東京の長男の家にたどり着いている。老妻と長男の嫁(三宅邦子)との間にも、また戦死した次男の未亡人(原節子)との間にも切り返しが確認できる。しかし、実は血のつながった子どもたち(山村聰、杉村春子)との間では、映画全篇を通して単独の切り返しがただの一度も使われていないのである。子どもたちは文字通り母親を一人の人間として見ていないということになる、ただの一度も。
このことを強調しているのが、東京に移動してからのシークェンスの冒頭部分に見られる、長男一家の母親(三宅邦子)と中学生の息子とのやりとりである。
【後篇につづく】
註
1 蓮實重彦『監督 小津安二郎』、ちくま学芸文庫、1992年、95頁。
2 山田宏一、蓮實重彦『トリュフォーそして映画』、話の特集、1980年、10頁。また、吉田喜重はこのような事態を「反映画」と呼んだ(吉田喜重『小津安二郎の反映画』、岩波現代文庫、2011年)。
3 佐藤忠男『完本 小津安二郎の芸術』、朝日文庫、2000年、93〜5頁。