ちょっとマニアックな「暗渠」の楽しみ方講座はじめます。
水のない水辺から ・・・「暗渠」の愉しみ方
第1回 暗渠への誘い
はじめまして。今回から月1回の予定で連載開始となりました、『水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方』で番頭役を務めさせていただく髙山と申します。
この連載は東京を中心とした「暗渠」を通して、みなさんによりいっそう「水辺の楽しさ・愛おしさ」を味わっていただこうという趣旨でスタートしました。はじめの数回は「そもそも暗渠って何なのよ」といった暗渠概論的なお話になりますが、その後は私の暗渠仲間、暗渠者たちと一緒になって「水のない水辺」である暗渠を具体的にご紹介しながら、みなさんを暗渠界(なんだか怪しい文字面ですね)にいざなって参ります。どうぞよろしくお付き合いのほど、お願いいたします。
「暗渠」ってなに?
まずはそもそも「暗渠」とは、というところからお話しいたします。読み方は「あんきょ」。小学館「大辞泉」によると、「地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路」とあります。ちなみに反対語は「開渠(かいきょ)」。ふつうに水面が見える川や水路を「開渠」といい、なんらかの手が加えられて水面が見えなくなってしまった川や水路が「暗渠」、というわけです。実はこの暗渠についてさらにきっちり定義・分類しようとするとまたいろいろあるわけなのですが、それはまた後日。ここでは、「今はもうなくなってしまったけれど、もともと川や水路であったところ」全てを「暗渠」と呼んで、話を前に進めていきましょう。
水面が見える水路は「開渠」。(杉並区・善福寺川)
かつての川に蓋が掛けられている「暗渠」。(足立区・神領堀東堀)
かつての川は下水道幹線となり地中へ。その上を緑道に転用している「暗渠」。(練馬区・田柄川)
かつての水辺・東京の水系
さて、都内を流れる川の主な水系といえば、①荒川水系 ②石神井川水系 ③神田川水系 ④渋谷川水系 ⑤目黒川水系 ⑥呑川水系 ⑦多摩川水系といったところが挙げられます。これらは川の水面が見える開渠区間が多く(=リアル水辺が多く)、みなさんにも明確に「川」として認識されているものばかりだと思います。
都内の主な水系を、地形を色で表して凹凸を見やすくした「陰影段彩図」の上にプロットすると下の図のようになります。
東京の「高低差」と、そこで谷を刻む水系。(東京マナイタ学会作成による陰影段彩図)
各水系の右岸・左岸にたくさんの小さな谷(支谷)が繋がっているのがおわかりでしょう。普段はあまり意識しないかもしれませんが、東京の台地は大小の谷があちこちで入り組んでいて、非常に「面白いこと」になっています。これらたくさんの支谷の殆どには水の流れが、つまり各水系の支流があったはずです。根気よくこれらの水系の支流、支支流を地図にプロットしていくと、実は東京は川だらけの街であったという事実が浮かび上がってくるではないですか。
地図に暗渠を書き込んでいくと実感できる「水の都」、東京。(「ユニオンマップ 東京&関東・磐越・甲信の地図」国際地学協会 に筆者が加工)
詳しくは個別の暗渠をご紹介する後々の回で改めて書くことになると思うのですが、谷を這う自然河川の他に、江戸時代以降に尾根筋を使って人工開削された水路までもが入り乱れていることが、東京の街をさらに「暗渠的に」面白くしています。その代表格は、羽村市から四ツ谷まではるばる43km、多摩川の水を江戸市中に運んでいた玉川上水でしょう。玉川上水は人工水路の幹線的な役割を担い、品川用水、三田用水、千川上水等々いくつもに枝分かれして、あちこちの尾根を「水辺」に変えていました。これらに加えて現在の中央区やその周辺には、舟運のための運河が張り巡らされ、江戸時代のウォーターフロントを形成していたことはみなさんご存知の通りです。
より遠くの江戸市中まで水を運ぶために尾根ルートを緻密に選んで開削された玉川上水。(福生市・玉川上水)
玉川上水から分水し高輪方面に水を供給していた三田用水の遺構。二つの矩形断面が水路。(港区・三田用水)
ウォーターフロントにあった水路は道路などに転用され、舟に代わってクルマが行き交う。(中央区・築地川)
水辺から水が見えなくなったわけ
近代から現代は、そんな水の都・東京から水が消えていく時代でした。関東大震災や終戦後の瓦礫処理で川が埋められたケースもありますが、山の手をはじめとした多くの川は東京が近代都市に生まれ変わっていくのと引き換えに水面を失くしていったのです。それは主に「下水道への転用」で、特に世紀のイベント・東京オリンピックを控え東京一丸となって都市化に邁進した昭和30年代に急ピッチで進められました。自然の川はもともと高いところから低いところに流れるようになっていることだし、これを転用すればたいへん効率的に下水道インフラが整備できるだろう、と。増え続ける工場や家庭からの排水で臭く・汚くなった川に対する住民の悲鳴もこれを後押しし、多くの東京の中小河川は「暗渠」となって土の中に埋められていきました。かつて清流を湛えた「キヨメ」の場所であったろう東京の多くの川は、排水による汚染によって「ケガレ」の場に変えられた挙句、暗渠として見た目「無かったこと」になっている、というのが現状です。
手元にあるデータを見ると、東京都のトイレの「水洗化率」は昭和38年時点ですでに82.6%となっています(「公共下水道統計 昭和37年度版」日本水道協会 より算出)。水洗トイレの普及が始まるのは高度経済成長期に入ってからのことでしょうから、昭和30年代は爆発的に「水洗化」、つまり下水道整備が進んだ時代ということがいえます。そしてそのぶん東京の中小河川は「水のない水辺」となっていったのです。
では、そんな「水のない」暗渠で、いったいどんなふうに水を感じ、愉しむことができるというのでしょうか。