【萬物相】完訳・李承晩日記と韓国の現実

【萬物相】完訳・李承晩日記と韓国の現実

 韓国の建国大統領・李承晩(イ・スンマン)の英語は、レベルが高かった。李承晩は1941年、著書『日本の仮面を剥ぐ(Japan Inside Out)』を米国で出版した。同書の書評を書いた人物は、『大地』の著者でノーベル文学賞を受賞したパール・バックだった。李承晩は同書で、軍国主義日本の野望を一つ一つ診断し、遠からず日本は米国も攻撃するだろう、と予言した。パール・バックは「これは恐ろしい本だ。あまりに大きな真実を秘めているから。全ての米国人が読むべき」と記した。同書の出版から4カ月後、日本はハワイの真珠湾を奇襲した。

 李承晩は1904年に初めて米国へ渡り、ジョージ・ワシントン大学、ハーバード大学、プリンストン大学で学んでわずか5年で学士号・修士号・博士号を取得した。卓越した英語の実力の裏付けがなければ「速成卒業」は難しかっただろう。6歳で千字文を学び終え、科挙の試験の準備をしていた李承晩は、培材学堂に入って英語と出合った。3年後、アペンゼラー校長や米国公使などおよそ600人の貴賓が集まる卒業式で、李承晩は「韓国の独立」をテーマに英語で演説を行い、拍手を浴びた。

 李承晩は1904年から44年まで米国・欧州・中国を舞台に活動し、その時のことを英文の日記に書き残した。これまで一般には公開されていなかったこの日記を、延世大学李承晩研究院が3年かけて完訳し、近く出版するという。「1904年12月6日、午後3時サンフランシスコ下船。ダブルベッドがある部屋は1泊50セント。食事は最も安いものが10セント」。李承晩が初めて米国本土に降り立った日の日記だ。

 日記は、修飾語や個人的感情をあれこれと目立たせることなく、その日に起こったことを客観的に記録している。それでも、日記の随所に、異国でつらい暮らしを送っていた独立運動家の孤独な日常が隠れている。「デンバーで自動車を修理するのにかなり経費を使い、ガソリン代もない。デンバーを離れた後、まる1日ひもじかった。年を取った旅館の主人と、部屋代をめぐって取引した」(1933年9月12日)。

 日記には林炳稷(イム・ビョンジク)・梁裕燦(ヤン・ユチャン)など、米国滞在中の李承晩を支援した韓国の若者が出てくる。彼らは後に、韓国外交の基礎を築いた。李承晩が会った外国の政治指導者も多数登場する。李承晩が彼らといつ、どのように会ったか探ってみれば、李承晩の海外人脈に関する研究が深まるだろう。李承晩は、東洋と西洋をまたぐ知識と戦略を土台に韓国をつくり、安全保障の基礎を固めた。しかし、建国大統領の思考や体臭が感じられる記念館や全集一つ作ろうにも、国会の予算審議で断たれてしまうのが韓国の現実だ。

金泰翼(キム・テイク)論説委員
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