日記は、李元大統領が1899年に起きた朴泳孝(パク・ヨンホ)のクーデター陰謀事件への関与で5年7カ月にわたって獄中生活を送った後、1904年11月に米国へ渡るところから始まる。このため、日記の最初の一文も「1904年11月4日午後1時、一行と共にソウル出発」というものだ。日記は、光復(日本の植民地支配からの解放)前年の1944年12月31日付で終わる。「フィラデルフィアにあるドイツ人居住地の長老教会で、幻灯機を用いて講演を行い、17ドル65セントを集めた」(1908年12月9日付)といった内容が示すように、貧しかった留学中、主な収入源となっていた講演料をセント単位まで記録したところが目を引く。
李元大統領の日記は、上海臨時政府の全権大使としてジュネーブの国際連盟本部に派遣された1933年1月から、急速に分量が増えていく。李元大統領は中国代表団と会談し、「対日本共同外交戦線」の構築に力を注いだ。「私は、中国代表に『韓国問題は満州問題と密接な関連があるので、韓国問題を国際連盟に上程してこそ、別の側面で日本に一発くらわせることになるだろう』と語った」(1933年1月11日付)という一文が、その代表例だ。柳錫春・延世大学李承晩研究院長は「米国留学生から独立運動の指導者に成長するに至る30年の過程を加減なく記録している、貴重な一次資料」と語った。延世大学李承晩研究院と大韓民国歴史博物館は、今年7月23・24日の両日、英文日記出版を記念して国際学術大会を開催する。