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phaの日記

毎日寝て暮らしたい36歳元ニートの日記です

村上春樹の創作作法



村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイトから「小説を書くこと」に関する内容を拾ってみた。サイトの公開は明日13日(水)の14時までで終了してその後は書籍化されるそうなので、ネットで原文を読みたい方は早めにどうぞ。

書くものが自分自身を超えていないと恥ずかしい

もし「シナリオを書いている私」というものに恥ずかしさのようなものを感じられるのであれば、はっきり申し上げまして、それはあなたが自分自身を超えていないからです。ものを書いているあるポイントで自分自身を超えることができたら、恥ずかしさみたいなものを感じているような余裕はないはずです。もっともっと自然に書きたくなるはずです。頭で筋を考えていると、どうしても自分を超えることはできません。身体全体でしっかり考えないとだめです。


「シナリオを書いている私」が恥ずかしい

もともと自分の中にある物語を掘り起こす

物語と空想は似ていますが、ちょっと違います。物語はもともと自分の中にあるものです。それは深いところに鉱脈のようにあります。それが地上にたまたまでてくるのが空想になるのかもしれません。つまり、ごく簡単に言ってしまえば、空想は物語の尻尾のようなものです。子供の頃は物語と空想がかなり近接したところにありますが、大人になってくると、そのふたつはだんだん分離していきます。

小説に即していえば、空想を書いていただけでは小説になりません。自分の中にある物語を深いところから掘り起こして来なくてはなりません。


空想とは物語の萌芽なのでしょうか?

自分が何かしらの源泉に結びついているという確信

僕の感覚からいうと、それは「自信」というのとは少し違うものです。むしろ確信に近いものかもしれません。自分が何かしらの源泉に結びついているという確信。それは新人賞をとったときからうすうす感じていました。それがかなりきちんとした確信になったのは、『1973年のピンボール』で僕が双子と一緒に配電盤を貯水池に捨てに行ったあたりからです。そして『羊をめぐる冒険』を書いているときにその感覚の基礎はしっかり固められ、『ノルウェイの森』でテクニカルに拡張されました。

まず最初に「根拠のない確信」みたいなものが必要とされます。根拠はあとから見つけていけばいいんです。でも最初に確信がないと、ちょっときついかもしれない。


物語を紡いでいける「確信」

独特の世界観?

きみの世界観と僕の世界観はおそらく、ずっと地底深くでちょっとつながっているわけです。小指の先っぽと先っぽくらいで。


独特の世界観が書けるのはなぜ?

結末の作り方

いつもだいたい結論は、書いているうちに自然にすっと出てきます。その「すっと」という感じがいいんです。


結末はいつ考えているのですか

何にでもなれる能力

プロの小説家になるには「(ほとんど)何にでもなれる」という能力が必要です。言い換えれば自分を離れることができる能力です。たとえば16歳のホモセクシュアルの少年になれといわれれば、(もちろんあくまで小説的に必要であればということですが)なれます。その少年の目から小説を書くことができます。物語の世界に入っていけるようになると、そういうことができるようになります。もちろんかなりの集中力が必要ですが。


昭和24年生まれの感覚とは?

夢を見るように本を書く

僕もだいたい、あなたが僕の本を読むのと同じような感じで、まるで長い夢を自然に通過するような気持ちで、本を書いています。意味を考えたり、構造を分析したりすることはまずありません。


もっと考えて本を読むべきですか?

自分が参加しているイメージ

映画を観るようにというよりは、自分がそこに参加しているように、という方が近いです。もっとリアルで、立体的です。物語の中に入っていくと、そういう感じになってきます。でも細部は自分でつくっていかなくてはなりません。すべてが自動的にやってくるわけではありません。おおまかな姿がやってくると、そこに細部をさっさっと賦与していく。そうすると姿がより明確に立ち上がってきます。そういう作業を一日に四時間なり五時間やります。そこでいったん中断して、翌日にその続きをやります。言うなれば、夢の続きを観るわけです。


小説を書くときのイメージの力とは

真実を伝えるために必要な嘘

「真実を伝えるために必要な嘘があります。それは嘘ではなく、物語と呼ばれます」


語り継がれる「物語」と小説家の「物語」

神話と物語

古代においては、神話的物語は生活に密着したアクチュアルなものとしてありました。人々の上部意識と下部意識は当時、まだはっきりと分別されてはいませんでした。しかし現代ではそれはおおむね「神話性」と「物語性」という二つのかたちに分割されてしまっています。でも我々はまだ、努力すれば地下に降りていって、「神話性」と「物語性」がひとつに溶け合っている世界に足を踏み入れることができます。そしてその世界の有り様を小説というかたちに転換していくことができます。小説家といわれる人はそのようにして「真実を伝えるために必要な嘘」をリアルに立ち上げていくことができるのです。


語り継がれる「物語」と小説家の「物語」

神話の力

人というのは、言語や文化の違いを超えて、時間を超えて、意識の底の方でみんなしっかりと同じ水脈に繋がっているからだ、というのがキャンベルの考え方です。無意識下のイメージはだいたいみんな似ているんです。

僕が小説を書くときも、そのような無意識下のイメージをできるだけ繋げていきたいという思いがあります。あなたは僕のそのような思いにうまく感応してくださっているのかもしれません。だとしたら、僕としても嬉しいです。


村上さんは神話を書いているんですか?

小説の意義

出口を見失って苦しんでいる人に、「出口はあるかもしれない」と思わせることができたらいいなあと思っています。もし誰かにそういう影響を与えられたら、小説家としては冥利に尽きます。


小説家としての冥利

小説の使命

こんなつまらない世界も、一皮むけば、けっこう面白いことになっているかもしれません。そのような可能性を具体的に示していくのが、小説の使命なのです。


小説の使命