日本社会にはびこる、子どもヘイトの本質

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「現代の子育てが、息苦しい」。子育てをしながら、そうこぼす母親や父親たちがいる。

街の中一つ歩くにしても、路上や電車内のベビーカーが鬱陶しいとか、偉そうに何様だ、もっと肩身狭そうにしろと叩かれる。飛行機や新幹線で子どもが泣くと、必死であやして早く泣き止ませなければ、あちこちで聞こえよがしな舌打ちや呟きが響く。

子どもが公園でボール遊びをすると周りの利用者に危険が及ぶから、野球もサッカーも禁止、大声も禁止で、昔ながらの子どもの遊び場なんてろくすっぽない(http://biz-journal.jp/2015/03/post_9346.html)。

子どもの蹴ったボールが当たり、バイクが転倒して高齢者が死亡したケースでは、遺族に訴えられてとうとう最高裁に(http://www.asahi.com/articles/ASH3S5RLWH3SUTIL03C.html)。

家にいたらいたで、子どもの声や足音がうるさい、と階下の住人が怒鳴り込んでくる。保育園に入れたくても空きがなくて入れない。認可保育園が新設されると思ったら、近隣住民の反対で頓挫(http://www.asahi.com/articles/ASH3W76FKH3WUTIL04M.html)する――。

最近、子育てを取り巻く報道や世間での話題が、どうも子どもフレンドリーではないのではないか。日本社会には子どもヘイトがあると思われても仕方ないほどの、ネタの豊かさである。子どもが生きづらい社会だ。「子どもらしくない」なら、ないで責められ、子どもらしくあっても、それもそれで責められる社会だ。

入園募集を始めていた東京都内の認可保育園に対して集まったのは、近隣住民約220人分の反対署名。公園には「サッカーをした場合、警察に通報します」といった脅しともとれる看板が設置。そんな風に大人たちが手間ひまかけ、エネルギーを投入してまで、どうして子どもを忌み嫌い、自分たちの生活圏や視界から排除したがるのだろう?

時代のせい? 地域性? それとも、国民性? 「田舎は子どもが少ないからすごく大切にされていて、いろいろと環境が恵まれている」と、東京から地方へ移住したワーママが話す。地方の方が却ってムラ社会で関与が大きく、それを生きづらいと思う子育て層もあるという調査報告があるから、決して地方が恵まれていることばかりではないという意見もあるだろう。ただ、彼女の感想から感じるのは、田舎の方が子どもという不完全でもともとうるさい存在に対しての耐性が強いだろうということだ。

なぜなら、整って安全で便利な「コントロールされた社会」では、不完全でアンコントローラブルな存在はリスク扱い。東京は他に類を見ない安全で清潔な都市で、中でも駅での整列乗車の自発的な徹底ぶりや電車内でお互い決して関わり合おうとしない異常な静寂には、海外の公共交通機関に慣れた旅行者からは「なんだか怖い、人間的じゃない」という感想さえ聞く。そんなふうに整理整頓されコントロールされ、秩序の下で同じように振る舞うことを暗に求める社会では、そうじゃない、言うことを聞かない存在である子どもは「社会の宝」どころか、秩序を乱す「社会的ノイズ」であり、「リスク」なのである。そして、そんな社会は子どもへの耐性が低い。だから揉める。

でも、社会の成員とはもともと粒ぞろいなわけがない。心身健康でルールに従順な人間(それもどうかと思うが)ばかりじゃなくて、さまざまな弱者がいるのが自然だ。弱者理解や、「政治的正しさ」の理解が浸透して、たとえば障害者を排除しようとしたら、それは悪だと認識される。でも、子どもは結構おおっぴらに排除される。なぜ、それは許されるのだろう?

子どもは親とニコイチとされている。子どもが蹴ったボールが故意でなく当たったバイクの死亡事故の件からもわかるとおり、未成年が犯した罪は、親の管理責任として追及される。つまり、もともと子どもを「秩序を乱すリスク」であるとみなすタイプの社会が、「そのリスクを管理できていない親は責任を取るべきだ」として、親を罰しているのだ。