菅俊一『まなざし』 なぜ人はブックカバーを裏返すのか?今読んでいる本は、現在の自分をもっとも表現できるモノなのに。
あたりまえを疑う『まなざし』
映像作家・菅俊一氏が、これからの執筆・編集・出版に携わる人のためのウェブサイト・DOTPLACE(ドットプレイス)にて連載している『まなざし』が電子書籍になりました。元々このサイトや運営者の内沼晋太郎さんが好きでよく閲覧していますが、この『まなざし』は本当におもしろい。
普段私たちが目にしているものも、視点が変わるだけでこんなにも面白くなるものかと驚かされます。人間の知覚能力に基づく新しい表現の在り方を研究されているだけありますね。ちなみに電子書籍『まなざし』はKindleなどで販売されています。たった300円で買えるので、騙されたと思って買ってみてください。知的好奇心を満足させる自信があります。
電車で見かけた、白い本
収録されているどの話もおもしろいですが、特に印象深かったのが第1話『電車で見かけた、白い本』。菅さんが電車に乗っているときによく見かける、白い表紙の本についてのまなざしです。
2015年に入ってから気づくようになったのですが、最近電車で本を読んでいる人が増えてきたように思います。ソシャゲブームがマックスだったときは猫も杓子もパズドラパズドラで非常にうっとうしく思っていましたが、どうやらスマホアプリブームも一段落したのか、原点回帰で読書(紙の本で)する人が増えてきたんでしょうかね。
電車で読むとなると軽い文庫本か新書が多いようですが、ほぼ例外なく皆ブックカバーをつけています。書店で買えばまず間違いなくカバーをつけてくれるので、そのまま読んでいるのでしょう。で、菅さんがまなざしで書いているように、時折真っ白なブックカバーをつけている人を見かけるんですよ。
よく見るとそれはカバーはカバーでも、裏返しにした元々のブックカバーなんです。わざわざ反対側に折り曲げてつけているみたいですが、一度やってみるとわかるとおり、すでに付いている折り目を逆にするのってかなり面倒ですし、収まりが悪くて気持ち悪い感じになります。
本の表紙を見られるのが、恥ずかしい?
別に本の読み方くらい好きにさせろと思いますが、これに対して菅さんはこう述べていらっしゃいます。
いつから私たちは、本の表紙を隠さずに堂々と読むことを「恥ずかしい」と思うようになってしまったのだろうか。
私たちはいつの間にか、自分が好きなものについて「好き」だという意思を表明することに、勇気がいるようになってしまった。自分が子どもだったときは、そんな勇気など関係なく「好き」だと言えていたはずなのに。大人になり、「これを好きなんて言ってしまうと、みんなに何て思われるかわからないし、怖い」と周りの目線や評価を気にし始めたときから、既に評価が定まったようなものでないと「好き」だと表明をしなくなってしまった。
でも本当は、たとえみんなが「つまらない、面白くない、ダサい」と言おうとも、自分だけが「好き、面白い、かっこいい」と思っていることにこそ、重要なものが詰まっている。 それは、この広い世界の中からあなただけが、その価値を発見できる視点を持っていたということだからだ。
これ、地味にショックを受けました。
確かに、「好き」という感情を素直に表現することができなくなったなと思うところがあります。相手に否定されようが好きなものは好きだし、人の目なんかどうでもいい。小さな頃はそう思ってました。
今読んでいる本は、現在の自分の関心を表現するのにもっとも適したモノ
私は基本的にブックカバーをつけないで、そのまま本は読みます。カバンに入れていると折れ曲がってしまったりするので、きれいな装丁の本は逆にカバーを外して読むときもあります。ですが、タイトルが人の目に触れることに関して、恥ずかしいと思う気持ちは全くありませんね。むしろ「俺は今こんな本を読んでいるんだぞ!」とアピールしたいくらいです。
本を読むということはつまり、その本の扱っているテーマや内容について少なからず関心があり、読むことによってその考えを自分の中に取り入れるということだ。
本はストレートに自分の関心が反映されるモノですよね。タイトルを読めば、今その人がどんなことに関心を持っているのかひと目でわかります。逆に言えば会話の糸口にもなるし、現在の自分を表現するのにもっとも適したものが本なんじゃないでしょうか。だから、正直私には何が恥ずかしいのかわかりません(公序良俗に反する内容であったりアダルトなら別ですが…)。
もっと自分の好きをアピールしたらいいのに・・・。
わざわざ表紙を裏返したために結果として「私は今、人に知られると恥ずかしいと思っている本をみなさんの前で読んでいるので、カバーを裏返しているのです。」という表明にもなってしまっているのではないかと、少し心配しながら周りを見回したが、周囲の人はみんなスマートフォンに夢中だった。
何かを隠すというのは、「人前では隠さなければならないものなんですよ」とアピールしているのと同じことです。カバーを裏返してまで本を読んでいる光景は、一種の羞恥プレイなのかなとすら考えてしまいます。「恥ずかしい本を読んでいる私」をもっと見て!といったような。
何気ない日常の風景、それもつまらない通勤の風景ですら、まなざしを変えると疑問に思うことはたくさんあるんですね。小さな気付きが、少しずつ自分のアウトプットを変えていくものです。そのきっかけに、まなざしをぜひ読んでみてください。
ちなみに私が今日電車で堂々と読んでいた本は、「ルポ 中年童貞」。
・・・恥ずかしげもなくこの本を開ける自分が、嫌いじゃない。