男性であるイミさんが電車内で痴漢加害者を発見し、被害者の女性を助けるために出来ることはないか模索し、実践する臨場感のあるエントリを読んだ。
オッサンは女の人の顔に自分の顔を近づけ、寝てるフリでもして不可抗力にでも見せたかったのだろう、目を瞑り、電車の揺れに合わせて、目を瞑った顔をゆらゆらさせている。時々強めの揺れがやってくると、これでもかと言わんばかりに女の人の顔に自分の顔を急接近させる。見るからに確信犯である。女の人は自分の顔を真横に向け、明らかに嫌がっている。
この記事の痴漢描写にはリアリティがある。私は女性の大多数が何らかの性犯罪の被害に遭った経験があるという事実は把握している(家族や彼女に聞いた結果皆性犯罪被害の経験があった)のだけれど、実際の痴漢を目撃したことがない。
痴漢冤罪が流行っているくらいに、痴漢はバレたらおわりです。そんなこと痴漢にだってわかっているのです。
なので、痴漢にあった本人が『ん…?わたし痴漢されてる…?この人痴漢ですって叫んでいいのかな?もしかしたら冤罪じゃないのかな?』と一瞬迷わせる方法で痴漢をしてきます。
以前名古屋嬢みさとさんのブログでも読んだのだけれど、実際の痴漢というものは、あからさまにお尻を触ったりするようなものではなくて、偶然性を装うものらしい。イミさんの記事で報告されている痴漢もまさにこのタイプだ。こういう実例の報告を読むことで、ステレオタイプな痴漢のイメージをより実際的なものに近づけていくことは、男性にとって重要なことだと思う。
イミさんは、実体験を踏まえた上で、次のような問題提起をしている。
この場面で、自分の意思をどうにか伝えようとすることはとても重要であると思う。『先生の白い嘘』の美鈴先生もそうなのだけど、性犯罪の被害に遭った女体持ちの人は、加害者の人に対してだけではなく、男の身体そのものに対して恐怖を感じてしまう可能性が高いから。そして男の身体そのものに恐怖を感じてしまうことは、自分が持っている女の身体を否定することに繋がり、その後の人生を自己否定しながら生きることになってしまう。そうならないために一番有効なのは、男の身体を持った人の中にもセクハラオッサンみたいなのとは違う人もいるということを、男の身体を持っている人が意思表示するということだろう。それが伝われば、男の身体そのものに恐怖を感じてしまい、男と女の生まれ持った身体の違いに絶望して自己否定することは免れることができるかもしれない。
「男の身体を持った人の中にもセクハラオッサンみたいなのとは違う人もいるということを、男の身体を持っている人が意思表示する」というのは必要なことだと私も思うけれど、イミさんのこの言葉に説得力があるのは実際に女性を助けるために行動を起こしているからで、単に「痴漢をするのは一部の異常者で俺は違う」と言うだけでは、女性の不信感を増幅させる結果になりかねない。
男たちは、「痴漢って、本当にいるんだよ」という都市伝説としての痴漢や、「こんなことをされた」というエロ話としての痴漢体験談は大好きなくせに、「痴漢被害で苦しみ怒っている女の話」は大嫌いだ。目をそらすし、自分が責められていると勘違いして急に怒り出す奴までいる。
実際に痴漢をする男なんてごく一部なんだけど、痴漢の話が出たときの男性一般の反応を見ていると、日本の男のほとんどは痴漢の「心情的味方」なんじゃないかと思うのよね。怖いのはそこなのよ。
— Kumiko (@Kumiko_meru) 2014, 11月 10
「俺は痴漢をしたいと思ったことはないし、むしろ冤罪が怖い」というような、「一般男性」と「異常者である痴漢」を区別し、更には女性がまるで冤罪を押し付ける加害者であるかのように語る男性の非当事者的弁明に対して積み重なった女性の不信感は、最早無視できるものではないと思う。
男性もまた性的に受動的な存在であるということ
痴漢問題に対する男性の想像力の欠落の根幹には、痴漢被害に遭った女性の痛みが分からない、性的に受動的な立場を強制されることの痛みが分からないということがあり、これは、男性である自分は絶対に性的に受動的な存在にはならないという社会的な思い込みに原因がある。自らに性的に受動的な側面があるということを認識できれば、そこに対応して、自らの能動的な男性性欲が他者にどのような影響を与えるかということに対して当事者的な想像力を喚起することができるようになる。
その為には、女性の性欲の能動的な側面と、男性の性の受動的な側面の社会的認知を高めていく必要がある。…というようなことは私が熱弁しなくても、現在様々な方面で確実に進行している事象だと思う。
私たちは皆、性の主体であり、また客体でもあるのだ。