UIが劇的に改善された例として、増井さんがよく挙げるのがSuicaだ。目的地までの切符をあらかじめ買っていた頃に比べると、最初からどの駅で降りるのかを決めなくても乗車することができ、途中で気が変わっても、どの駅でも降りられるようになった。そしてそのことを、いまでは誰も自然に受け止めている。逆戻りできない変化の一つといえるだろう。
「Suicaがあれば犬でも電車に乗れる」という喩えを増井さんはよく語る。たんに切符からICカードへと物理的な仕組みが変わっただけでなく、利用者の体験自体が劇的な向上をともなったという好例だろう。
「インタフェースを作る側の開発者の意識も、現在に囚われているんですね。それに、あまり変なUIを出しても、ユーザーからすぐには受け入れられない。予測入力の「POBox」は、最初はオプション機能だったのだが、便利だとユーザーに認知されるようになってから基本機能として搭載されるようになった。そこまで行けば、もう誰も違和感は感じないんです。
はじめは突飛なアイデアと思われたものも、時代がたてば誰が最初に思いついたのかさえ、誰も気にしなくなる。たとえば「メニュー」や「スクロールバー」というインタフェースを発明した人の名は知られていないでしょう? でも、「メニュー」がどういうもので、どう操作すればいいのかは誰でも知っている」
増井さんによれば、こうしたものはUIにおいて「イディオム」と呼ばれるのだそうだ。「イディオム」として定着したものは自然に感じられ、ユーザーに不便さを感じさせない。似たような例として、モダンジャズにおける「ジャズトリオ」の発明や、近代日本文学における「言文一致体」の例も挙げてくれた。
「私はジャズが好きなので、ジャズ・トリオという編成を当たり前のものとして聴いていた。でも、あれはバド・パウエルや彼の周りにいた連中が発明するまで存在しなかったことを、あるとき知ったんです。彼らは「未来のジャズの常識」を発明したわけで、そこが偉いと思うんですよ。また明治時代に二葉亭四迷らが、「言文一致体」というものをものすごく苦労して編み出したおかげで、いまではそれが日本の小説にとって当然の表現方法になっている。インタフェースの世界で、私もそういうことがやりたいんです」
増井さんのプログラミング技術をあらわす言葉として、「長屋コンピューティング」や「富豪的プログラミング」がある。前者は「長屋」のような何も置かれていないガランとした場所で機能するUIを考えるということであり、後者はCPUパワーやメモリ資産を惜しみなく活用するという、プログラミングにおける方法論とのことである。
「プログラミングをするときには、何か制約があるほうが発想が出てくるんです。たとえば"何もないところで人はどうやってググるのか"ということを考えると、いろいろとアイデアがでてくる。予測入力という発想も、はじめは"どうしても片手で文字入力したい"というところから出てきた。だから、別に長屋じゃなくてトイレでもいいんです。"どうしたらトイレで映画が見られるか"というようなところから発想していけばいい。なにしろ、いまは壁にスマホを貼りつけるぐらいしか方法がありませんから(笑)。
「富豪的プログラミング」ということを言ったのは、技術者という人種がすぐに細かいことにこだわりがちなことへの戒めなんです。最近は、プログラミングを書くときにそれほど細かいことを考えなくていい。少しぐらい効率の悪いプログラムを書いても、メモリもCPUもたっぷりあるし、ブラウザ上でもJavaScriptでなんでもできるから」
エンジニアにはよく知られた「ムーアの法則」というものがある。「プロセッサの集積度は18ヶ月で2倍になる」という経験則だが、この傾向はインテルのプロセッサが生まれて以来、もう数十年も安定して続いている。このまま続けば、コンピューティング・パワーはとてつもないところまで行きつく。他方、ユーザインタフェースはその進化にまったく追い付いていない、と増井さんは言う。
「いまのスマートフォンは、昔のスーパーコンピュータより速いんですよ。このあいだ、1977年ごろ私が仲間と組み立てたマイコンと今のスマホのメモリの量を比べてみたら、「徒歩」と「光速」ほど違う。いまはCPUの速度も早くなっているから、私達はとんでもない「富豪」になった。でも残念なことに、ユーザインタフェースのほうは、当時から十倍も改善されていないんです」
増井さんの人懐こい風貌と、趣味でジャズピアノを弾くという話から、私はアラン・ケイを連想した。いうまでもなくゼロックス社のパロアルト研究所でGUIの開発の中心となり、パーソナル・コンピューターの原型といわれる「ダイナブック」のモデルを考案した人だ。
ケイは「未来を予測するもっともいい方法は、それを発明することだ」という名言を残したことで知られている。増井さんもこの言葉を、あるインタビューで座右の銘として挙げていた。
GUIの「次」がどうなるか、いまだはっきりしたことは誰にもわからない。いつかそれが社会に登場したときは、おそらく突然変異のように、過去と非連続なものとして受け止められるだろう。しかし、理想的なインタフェースのあり方を模索する増井さんのような開発者にとって、未来とは「予測」するものではなく、すでに「いま・ここ」にあるものなのかもしれない。
増井俊之 Toshiyuki Masui
慶應義塾大学 環境情報学部 教授
1984年東京大学大学院工学系研究科電子工学専門課程修士課程修了。シャープ、ソニーコンピュータサイエンス研究所、産業技術総合研究所、米国Apple などに勤務後、2009年4月より慶應義塾大学環境情報学部教授。情報検索、テキスト入力、情報視覚化、実世界指向インタフェース、予測インタフェース、認証技術など、ユーザインタフェースに関連する幅広い研究開発を行なっている。携帯電話やスマートフォンで広く利用されている予測入力システムやフリック入力システムの開発者。Gyazo.com, QuickML, 本棚.orgなど各種のWebサービスを運用中。
Web: http://pitecan.com/