「アイヌ民族はもういない」

 こんな乱暴な発言がインターネット上で飛び交っている。

 言語学者の記述の一部に基づいているようだが、うなずけない。

 現実にこの国にアイヌ民族が存在するからこそ、政府は道内に民族共生の象徴空間を造り、そこに国立のアイヌ民族博物館を設置しようと進めているのである。

 浅い知識に頼る根拠なき否定論は差別を助長しかねない。市民がアイヌ民族の歴史や文化、現状を理解する機会を増やし、誤った認識の広がりを止めたい。

 「好きこのんで文化や言語を失ったわけではありません」。伝承者の萱野茂さんは生前、こう繰り返した。明治以降の同化政策によって文化を奪われたとの主張だ。

 この言葉の重みをかみしめたい。固有の文化が希薄化していることを理由にした民族否定論がいかに理不尽なものかが分かる。

 それでも「いない」と強弁するなら、「負の過去」と向き合おうとしない歴史修正主義と取られても仕方あるまい。

 過酷な歴史を経ながら、アイヌ民族であるという意識を失わず、文化継承に取り組んでいる人が数多くいる。その行為を正当に評価し、文化復興を後押しすることこそ共生社会である。

 政府や司法が民族としての確固たる認定をしている経緯を、いま一度確認しておきたい。

 1997年の二風谷ダム訴訟判決で札幌地裁はアイヌを先住民族と認めた。

 2008年には衆参両院が「先住民族とすることを求める決議」を全会一致で可決し、当時の町村信孝官房長官が政府として先住民族との認識を示した。

 否定論には、北海道アイヌ協会の一部で過去に明るみに出た委託金不正経理への非難も込められている。

 むろん不適切な行為には襟を正さないといけない。だが、その不正と民族が存在するかどうかは全く次元の異なる問題である。

 先日、札幌市内でアイヌ民族否定論への問題意識を共有する市民集会が開かれた。

 参加者から、格差社会のいらだちが少数者に向けられた面があるとの指摘がなされた。

 弱者や少数者へのいじめに結びつく側面にも敏感になるべきだ。

 異文化、異民族を排除する風潮から生産的なものは何も生まれない。文化や民族の多様性が互いに刺激を与え、社会を豊かにする。その視点こそ欠かせない。