クールジャパンの美名のもとに、日本政府がコンテンツ稼業に口出しするようになってから10年くらい経っているんじゃないかと思う。この10年、日本の文化的レベルは上がっただろうか?誰がどう見ても、実際には下がっているのだ。
分かりやすいのが大衆の日常文化だ。J-POPやテレビ番組の質は劣化しまくり、ついにはまともなコンテンツがほとんどみられないスカスカ状態に陥っている。ジャスラックやNHKなどの既得権は未だに潰れる気配がない。でも、クールジャパン事業の予算が年間タンマリついているのだから、一体どこに消えているのか。謎である。
日本には「文化省」がない。
日本のお隣のロシアと、同じアジアのタイではそれぞれ戦後直後に文化省を作っている。
たとえばロシアには戦争で勝ったことがあるが、どう考えても文化で勝ったことは一度もない。私は北方領土が帰って欲しいと願っているし共産主義もプーチン政権も大嫌いだが、そうした反発感情を打ち消すほどの文化がロシアに存在している。チャイコフスキーやストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ、ゲオルギー・スヴィリードフなどの楽曲は大好きだ。それに値する感動を日本の音楽から味わったことはない。こんな奥深く情緒のあるような音楽文化の深い土壌のある国に比べると、日本はなんともチンケな国だとずっと思っている。
そうしたためロシアの話題を見ると、ついワクワクしてしまう。文化の影響力というのは侮れない。
にもかかわらず、日本には文科省の中に文化庁が狭苦しく置かれているだけで、文化行政なんてほとんどないに等しいのではないかと思う。
歴史をひも解けば、日本の文化は「民」が作っていたと思う。
それは何も、都会に限ったものではない。本来なら地方にも美しい文化があったのだ。例えば私の祖父の家では明治時代に画家を泊めて描かせた襖絵がある。文化財としての価値は乏しいかもしれないが、こういう風な文化交流が近世以前からずっと各地で盛んにあったことが「お宝鑑定団」に出てくるような名作絵画につなががっているんじゃないかと思う。秋田県の田舎であってもそういうものがあったのなら、どこにでもあって当然だろう。
しかし、そうした文化の蓄積がまず無くなったのが戦時中だろう。極度な貧困があり、由緒のあるお寺の鐘楼や名刀が没収されて武器に替えられたのだ。これによってご先祖が失った財産は多い。そしてその後は、高度成長期である。誰もがみな東京に暮らし、三種の神器や新三種の神器を買い求め、ダイエーでの買い物とテレビ鑑賞による「国民総中流」の常識が出来あがると、価値ある文化財以外は忘れ去られて葬り去られてしまった。文化の持続可能性が途絶えたのである。
ルネサンス時期から「お上」が文化政策の発想を持っていたのがフランスだ。たとえばルーヴル美術館は、フランス革命によってルーヴル王宮が美術館になり、特権階級が独占していた文化が民衆に解放された歴史的経緯がある。
日本ではどうだろう。まず江戸幕府が西洋のような絢爛豪華な宮殿をもっていたとは思えない。(実際、二条城の大広間でさえもちょっと豪華なタタミ部屋にしか見えない)明治維新以降は、政府の偉い人や明治政府と結託することで財を成した成金財閥の経営者らは「えせ西洋貴族」の振る舞いをしたのだろうが、それは日本の伝統と大いに矛盾するし、本場の西洋人の上位層ほどの品位も備わっていなかったことは想像に難くない。
しかも、そうした「独占された富」が今まで市民に解放されたことはあるだろうか。GHQは戦犯を東京裁判にかけたが、支配されていた文化を市民に解放することはなかったし、文化の格差是正を求める国民もいなかった。
これこそが、日本の文化政策の最大の問題なのである。
ある女性に大人気の国民的アイドルグループの人気メンバーは、親が総務官僚だという。放送業を管轄する省庁の役人である。最大手動画サイトの経営幹部に総理大臣経験者の親族がいたりとか、ポップカルチャーやサブカルチャーでさえもこんな調子である。
つまり、多くの先進国がそうであり、日本人にとっても理想であるような、政治や官が文化をけっして不当に独占せず、「公共的な位置づけ」に文化を取り巻くもろもろが存在し、民によって作られた文化の市場ができあがり、その中でも優れたものをお上が助成金を出したり、PRに用いたり、結果的に国益につなげたりするような、そういうフェアなモデルが、まるでないのである。
博物館法では、公営博物館・美術館は入場料を取ってはいけないという規定になっている。だが、「やむを得ない場合」のみ例外が許されており、日本の大半のハコモノはこの理屈で入場料を取っている。都心の人気の施設はどう考えても採算が取れているのだが、無料化される気配はない。
同じような法律は諸外国にあり、海外では大英博物館のように最初から無料公開をしているか、韓国国立博物館のようにめどが立ち次第有料から無料に移行させるパターンになっている。しかし、あなたの街の市立美術館もきっとそういう努力をした形跡はないだろうし、未来永劫するつもりもないだろう。
冗談ではなく、日本の文化政策は中世レベルなのではないかと思う。
革命以前のフランスのように、政治的な支配層が文化を独占してはいないか。それが皮肉にも、クールジャパン政策であるように見える。
ほら。「国民的アイドル」が流行れば、必ず安倍総理の会食や花見にお呼ばれしたり、省庁を表敬訪問したり、政府の観光PRのマスコットになったりするではないか。多分五輪でもフル活用するだろう。それを公共放送のふりをした国営放送が悠々と伝えていて、その経営幹部は人気民放番組や人気映画や人気小説を作った人だったりする。
国民の大半は、マスメディアのゴリ押しするコンテンツにそれほど関心はない。むしろ違和感を抱いていて、それらが「公的な場」にしゃしゃり出てくるとその度に嫌悪感を抱くくらいである。
無理もないのだ。江戸時代に、いったいどれほどの人が江戸城の中の常識で作られた文化に関心を抱いただろうか。その存在を知りもしないか、もしも知ったところで、他人事だ。しかし、大半の日本人は江戸幕府を倒すための運動をせず、士族以外は戊辰戦争に「巻き込まれた」のである。
この時代の「お上と世間のギャップ」感覚が、今の今まで根付いているから、権力と一体化したメディアが垂れ流すデッチアゲの流行は大半の国民に響くことがなく、「中世にもきっといたであろう」支配層にひたすら迎合することで生きていた末端底辺部類だけが「B層」として国民的グループを礼賛するのではないかと思う。それは今で例えると、北朝鮮のどこかで現地指導に来た将軍様を崇めている小作人みたいな存在である。
きっと、面白い番組がいっぱいあった時代。日本のテレビが自由で豊かだった時代、NHKさえも島会長が改革を取り組もうとしていたような、戦後昭和から2000年代初頭にかけてのあのテレビ黄金時期は「GHQの時代の名残」があったお蔭で、つかの間の繁栄を謳歌していたのではないか。一般素人がオーディションでスターになったり、ニューヨークに行ったり、イライラ棒で大金を獲得したりした時代には、国民もテレビの参加者としての一体意識があったし、権力は娯楽番組の限りない遠くにいたはずだ。
だが、電波少年が村山総理や自民党の腐敗した代議士を茶化したりした当時と、安倍首相が民放娯楽番組の現場に上がり込んで何か高貴な人であるかのように脚色したVTRとともにスタジオではどんなKYな芸人やオバカアイドルでさえも空気を呼んで全力ヨイショされている今では、事情は正反対だ。封建時代の抑圧性が復活してしまっているのである。
日本の文化政策は中世レベルだという現実を私たちは今一度再認識する必要がある。
だから、クールジャパンになど期待せずに、むしろ戦前の日本人がそうであったような、民間同士で文化を作り、評価し、あるいは支援し、共有しあうような、そういう構造をもう一度立ち返る必要がある。幸いインターネットの時代である。画像・映像・文章ならばネット上にアップロードできるし、演奏会や演劇のような生じゃないと成立しないものでもFacebookを用いるなどすれば行事の告知が用意にできるようになった。
日本ローカルの国内メディアなんて、FOXやBBCなどをふくめた地球規模のテレビ産業に比べればチンケな存在であるし、クソすぎるJ‐POPを相手にしなくてもそれより遥かに優れた膨大な洋楽世界がある。そうした本場のものが日本にいながらにしていくらでも享受できるという、昭和にない強みを私たちは持っているのだから、日本の文化の質を今後どうやって高めるかと言うことを考えると、在京マスコミ抜きの文化圏を今一度作り直せばいいだけなのである。