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2015-03-12

『風立ちぬ』と『小さいおうち』を観た母が語る戦中と戦後

今年78歳になる母が一人で暮らしている実家に、先日泊まってきた。いつも名古屋に用事で来たついでに寄ってバタバタと帰るので、たまにはゆっくりしていこうということで。

先月下旬にテレビ放映された、『風立ちぬ』と『小さいおうち』の話になった。

アニメと言えばサザエさんしか見たことのなかった母にとって、『風立ちぬ』のアニメ表現は驚くべき体験だったようだ。『小さいおうち』の方は、「タキさん(黒木華)がとってもよかった」。物語の内容もさることながら、いずれの作品も母が生まれる十数年前から生まれた後にかけての時代を描いているため、いろいろ細かい事物の描写も懐かしかったらしい。

「何か見覚えのある景色や物が出てくる度に、昔の思い出に浸っちゃったわ」と母は言った。それから母は、戦中や戦後の思い出をつらつら語った。

昭和12年に母が生まれて結婚まで過ごしたのは、名古屋市の北東にある春日井市松新町。戦争体験は小学2年の頃だ。以下は聞き書きしたこと。


◯戦時中の話

「うちの町内から少し離れたところに、鳥居松工廠があったの。工廠って軍需工場ね、今では王子製紙になってるとこ。そこをB29が狙って爆撃するんだけど、時々周りの民家も巻き添えになって燃えてね。ちょっと的が外れたらうちも危ないじゃない。恐かったわよ。でも、兵隊さんが頑張ってるから皆も頑張らなきゃいけないんだって思ってたわね、その頃は。おばあちゃん(母の母)も古い着物解いてモンペ作って、バケツリレーや藁人形を竹槍でヤーッて突く訓練に行ってたわ。当時はどこのうちも、庭にコンクリートの四角い貯水槽があったの。戦争終わっても残ってたから、そこで金魚飼ってた」

昭和20年3月10日は東京大空襲の日だが、70年前の今日、3月12日に最初の名古屋大空襲があった)


◯終戦から2年後くらいまでの話

「おじいちゃん(母の父)が戦地から戻ってきたのは、1年経ってからだった。それからしばらくの間おじいちゃん、大曽根三菱軍需工場の財務処理の仕事してたの。そう、アニメに出てきたわねぇ。ほんとにあの通り、周りには何もなかったのよ。それである時、闇市でチーズを買ってきてくれたの。私、栄養失調でガリガリになってたから「カズコに食べさせないかん」って。このくらいの鏡餅みたいな丸い形で、コンビーフの缶みたいに包装をクルクル巻き取ると中身が出てくるの。でもチーズなんて見たこともなかったでしょ。こんな石鹸みたいなもの食べられないと思ったわ。なんだか臭いし。栄養だからって言われて無理して食べたけど」


「うちの近くに、どっかの社長さんの大きなお屋敷があったの。朝鮮の人でね、お商売で成功したんでしょうね。そこの奥さんがとってもきれいな人で、近所では有名だったのよ。もしかしたらお妾さんだったのかもしれないけどね。で、戦争が終わってから、進駐軍のジープがそこのうちの前によく停まるようになったの。それも必ず、旦那さんのいない昼間で、アメリカ兵がその家に入っていくの。近所じゃ、奥さんがアメリカさんと浮気してるとか、体売ってるのかもしれないとか、ずっと噂してたのね。そしたらある時、とうとう旦那さんにバレちゃって。奥さん、頭を丸坊主にされちゃったの! しばらくの間手拭いを頭に巻いてたわ、その人。子ども心に気の毒だったわね、きれいな人だったのに」


「教科書は、それまでのはいけないことになったでしょ。天皇陛下のこと書いてあるところとか、全部墨でベタベタ消させられたわね。もう真っ黒で何が何だかよ。それから新しい教科書がまだないから、ザラ紙に刷ってあるのを先生が皆に配るの。バラバラのやつを。それを家に持って帰って、ページ順に揃えて閉じて持って来なさいって。それでおばあちゃんが千枚通しで穴を開けて、紐で閉じてくれた。表紙は、おじいちゃんがどこからか持ってきた画用紙を切って付けたの。自分で「こくご」とかタイトル書いて、ついでに色鉛筆で表紙の絵も描いたりして楽しかった。でも、おうちで親がそういう面倒を看てくれない子もいてね。学校でもずっとバラバラの紙のままで持ってて、そのうち順番もめちゃくちゃになっちゃってもう大変」


「まだ給食は時々しかなかった。脱脂粉乳がまずくてねぇ。大きな盥みたいな鍋にお水張ってドサッと粉を入れて、沸かしながら竹箒で掻き混ぜるのよ。あれはどうしても飲めなかった。それ以外は、お昼はお弁当持ってくるか、うちに帰って食べる子もいた、おうちの近い子はね。でもお昼休み中、トイレの裏の倉庫に凭れて一人で日向ぼっこしてる子もいたわね。うちに帰ったふりして、そこで時間潰してたのね。貧乏でお弁当持たせてもらえないし、帰っても御飯がないから、お昼は抜きなのよ」


「通学路にアメリカ兵が出入りする建物があったの。下校時間なんかにアメリカ兵がよく塀の上にまたがっていて、私たちに声かけてきた。ガムとかチョコレートみんな貰ってたけど、私は貰わなかった。アメリカ人、見上げるように大きくて恐かったしね。すごい大きなお尻が私の顔の高さくらいにあって。こんな人たちと戦争して勝てるわけなかったって思ったわね。そう言えばお父さん(私の父)に後から聞いた話だけど、お父さんが一人で夜道を歩いていた時、後ろから来たアメリカ兵の2人組にいきなりひょいっと抱き上げられたんだって! 戦争終わって2年くらいの頃。お父さん海軍のコート着てたけど小柄だし、『小さいおうち』の板倉さんみたいな長髪だったし、女の人だと思われたのね。びっくりして大声出して、向こうも男だとわかってすぐ降ろして、バイバイって笑って手振って行っちゃったって。女だったら暗いところに連れ込まれて、強姦されちゃったのよきっと」


◯終戦から7年くらい後の話

「中学の修学旅行は、東京と江ノ島だった。一人一人、自分の食べる分のお米を担いで行ったのよ。宿泊先でそれを炊いてもらうの。東京ではホテルの広い食堂で御飯食べたんだけど、同じ階の隣にバーみたいのがあって、アメリカ兵がいっぱいいるの。そんで、チリチリにパーマかけて真っ赤な口紅塗って胸元の開いた派手なワンピース着た日本人の女の人たちが、アメリカ兵の腕にぶら下がってキャアキャア言ってるのが、食堂からも見えるのね。私その時、それにものすごくショックを受けてねぇ。戦争に負けるってこういうことなんだ、ああ厭だって思ったわ。その夜、先生が生徒をグループに分けて、社会勉強の街歩きに連れて行ってくれることになったんだけど、私行かなかった。なんだか具合が悪くなっちゃって、もう一人ミヨコちゃんて子と二人でホテルに残ったの。そのうち仲居さんが「皆さんの布団ですよー」って、たくさん布団を運んできたのね。当時だからシーツも何もない、裸の布団だけ。で、暇だから私とミヨコちゃんと二人で、せっせと布団敷いたの。みんなが帰ってきたら、大部屋にズラーッと全部布団が敷いてあって、私たちは寝てたのよ。その後に行った江ノ島は大きな日本旅館でね、私たちが泊まった向かい合わせの棟には、新婚さんがたくさん泊まってたの。もう並んでいる部屋がぜーんぶ新婚さん。こっちから全部見えて、何やってるんだかわかるのよ。それで男子が「見えるぞ見えるぞ」って騒いで、先生に「廊下に出るな」って叱られてね。楽しかったわ」


「私は戦争のことを覚えている最後の世代になるわねぇ」と言いながら、母は話し続けた。『小さいおうち』のタキさんのように、母の覚えているのは自分の半径15メートルくらいの、本当に細々したことばかりだ。

母が亡くなったらもう誰にも思い出されず、語られることもない小さな出来事の数々。それらによって、半世紀以上前に、少女だった母の中に湧き上がった感情や刻み付けられた感覚。

今になってなぜそういうことに興味が引かれるのか、それらが今の私とどこでどう繋がっているのか、私はまだうまく言葉にできない。



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「私、朝鮮の人になっていたかもしれない」と母は言った

母と「タキさん」

六文銭六文銭 2015/03/13 01:14  母上は私より一歳上でいらっしゃいますから、ほとんど記憶が重なります。
 違いがあるとすれば、私は1944(昭和19)年末から49(昭和24)年初めまで田舎に疎開していましたから、ようするに都市と田舎の違いでしょうか。

 空襲は名古屋大空襲ほどではなかったのですが、大垣の空襲に巻き込まれました。郊外の田舎なので大丈夫だと思ったのですが、近くにあった紡績工場が軍事工場になっていて、そこを攻撃した爆弾が至近距離に降り注ぎ、掘っ立て小屋の疎開家屋が半焼しました。
 疎開する際、おいてきた岐阜に家は無事だった(とはいえ道路一本向こうは燃えていました)のに、疎開先で焼かれるなんてドジな話です。
 なお、消火する際、水がなかったので、大人たちは近くの肥溜めから糞尿を運んでぶっかけました。お陰で火はおさまったものの、その後の臭いこと臭いこと。その匂いはしばらく消えませんでした。
 「これがほんとうのヤケクソだ」というのは、私が落語家になった際のギャグにととっておいたのですが、幸か不幸か、高座には上がりませんでした。

 小学校の給食も似た思い出です。新聞紙に包んだふかし芋を持っていったこともあります。脱脂粉乳は、いまから考えると不味いのでしょうが、ミルクというものを飲んだ経験がなかった私はガブガブ飲みました。
 今日までながらえたのは、まさにララ物資のおかげだと思っています。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%A9%E7%89%A9%E8%B3%87

 「ギブミーチョコレート」は憧れの的でした。田舎だから進駐軍が来ないのです。あるとき、ついに彼らが現れました。ジープ二台ほどに分乗した彼らが部落を駆け抜けたのです。わらじ履きの私たち子どもは、あらん限りの声を振り絞ってジープの後を追いかけました。「ギブミーキャンディ」「ギブミーチョコレート」。ジープは私たちの懇願の声も虚しく、未舗装の田舎道を砂煙を上げて駆け抜けて行きました。

 もちろん、教科書の墨塗りもしました。教師が教壇から、何ページの何行目から何行目と指示するのですが、どじな私はページを聞き間違えて変なところに墨を塗って後で苦労しました。

 中学校の修学旅行はやはり江ノ島、東京(母上とは順序が逆のようです)で、米を持ってゆくのも同じでした。しかし、そこは一年の差か、さしたるアバンチュールもなく、ごく普通に巡回してきました。

 母上の経験、そして私の経験、それは当時としてはごくありふれた一般的なものだったかもしれません。しかし、それはたぶん、母上の今日の生き方に何らかの影を宿していることは間違いないでしょう。
 私に関していえば、本土決戦になったら一人一殺で天皇陛下のために殉じるのだと決意していた軍国幼年が、至近距離に爆弾が降り注ぐなか、防空壕のなかで恐怖に慄き泣き叫んでしまったという事実が、今なお、トラウマになっています。

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