無要の葉

振り上げた正論(つるぎ)は切り裂くためじゃない

特にオチはない

 雑感すぎてどうしようもない雑感。「くだらないことをweb上に垂れ流すんじゃない!ろはすろはす!」という人は読まないでください。

 

 そもそも「自分の思い通りになる空間を作りたい」っていうのは誰でも持っている願望だろうし、それを疑似的に叶えてくれるのがインターネットだと思う。必要なものを取捨選択して、さらに自分の好きなアイテムで自分をイチから演出することが出来るシステムはなかなか画期的だ。

 

 でも、全てが自分の思い通りになるかと言うともちろんそんなわけはなくて「面白いと思っていたブログがある日読んだ記事は自分と考えが違ってがっかり」とか「自分の思い描いていたキャラクターと全く違う振る舞いをしている」とか、そういうことは現実社会と同じく起こる。自分を変えることは出来るけれど、他人を変えることはできない。当たり前のことだ。

 

 よく言うけれど、インターネットというのは自分と他人の境界が曖昧になりやすい空間だと思っている。最近では無断転載だのパクツイだのあるけれど、大昔からサイトなりすましやコテハン騙りは当たり前のように存在した。何故彼らがそんなことをするのかは「足りないから」という観点で切り捨てられてきたけれど、この大SNS時代になってからはそろそろ本気で向き合わなければいけないと思う。

 

 そこで今回気になったのがチラチラ話題になっていた「〇〇さんが好きそうな話をしないのはおかしい」ということね。実はこういう話はネット上にいーっぱい転がっている。「誰さんは〇〇好きなら▽△も好きなはず」という思い込みで誰さんに▽△を勧めて、実際誰さんはそれほどハマらなかったときに「裏切った!ひどい!」ってなるパターンなんかです。よくある揉め事ですね。

 

 どうも「ネットの誰かさんの好き」と「自分の好き」が同質であると多分思っているのだと思う。どれだけ言葉のやりとりをしても、感覚を共有することはできないから最後の最後で食い違いがあるはず。大体の人はその誤差を修正したり計算に入れて会話をしているはずなのに、たまに「100%」の同質の感情を求めてくる人がいる。「同意」もしくは完全な「否定」しかなくて、少しでも求めているモノと違うと「理想が壊された」とばかりに攻撃をしてくる。そんな人もいる。結構いる。

 

 インターネットはある程度の理想の空間を作れるとは言ったけれど、それは「発信」によって可能なことであって、他人の発言に対してまでは有効ではない。他人の発言をコントロールしたいのであれば、自分も積極的に「自身の考え」として発信していく必要がある。理想も語らず他人の理想を否定しまくるだけの存在になってはいけない。誰かの理想を壊したかったら、壊される可能性のある自分の理想を築かないといけない。

 

 もちろん自分の理想を外からわかるように築くということは非常に難しいことで、しかも自分が傷つく恐れもある。だから「発信」を恐れている人が多い。多くの非公開アカウントは誰かを傷つけないためにしているのではなく、自分が傷つかないためにそういうことにしている。それはものすごく大事なことだ。

 

 ただ、誰かを貶める発言を公開しているのに自分の理想を語らないのは卑怯だと思う。「自分には絵心がないから」「文才がないから」という理由で「絵のうまい人はずるい」とか「文章の書ける人はいいですね」みたいに絡んでくる人も辛い。自分の理想と他人の理想がぶつかるのはわかる。わかるけど、やっぱりフェアじゃない。「上から目線で見下している」というのは勝手に下にもぐっているだけじゃないのかと思うときもある。

 

 だから何だって言うとオチはない。ただなんでこんなことを書こうと思ったかと言うと、自分はいろんなことでモヤモヤしているものを言語化するのが好きだ。その記事に対して「この記事の言いたいことはわかる。わかるけど自分の中のモヤモヤは解消されないから不満」みたいなことをよく見かけるんだけど、そんなこと言われてもなぁって思ったのがきっかけ。自分のモヤモヤが解消されないなら、自分でモヤモヤを発信すればいいのにって思ったんだけど、それもいつぞやの「強者の理論」って奴なのかもしれないなぁってモヤモヤするわけで。じゃあそういうコメントはどこへ行けばいいのかって言うと自分は知らない。

 

 とりあえず不恰好でも自分の意見をちゃんと言える人と、人の意見にぶら下がることでしか自分を誇示できない人だったら、自分は前者を選ぶ。中には「自分の意見」を言っているつもりで上記のようにいつのまにか他人の意見を言っている人もいる。そういう人は苦団子でも食べるしかないんだろうな。