
※ワードの説明及び記事の内容は掲載時点のものです。
東京大空襲
1945年3月10日未明、米軍のB29爆撃機300機以上が現在の東京都江東区、台東区、墨田区など木造家屋が密集する地域を対象に行った無差別爆撃。焼夷(しょうい)弾をまず対象地域の周囲に投下し、住民の退路をふさいだ後、内側を爆撃したため、多数の死者が出たとされる。下町を中心に当時の東京都の40%に当たる約40平方キロメートルが被災。犠牲者10万人以上とされる。東京への空襲はその後も続き、同年5月にも大きな被害が出た。
(2015年3月10日掲載)
東京大空襲70年 犠牲者10万人 遺族ら悼む
■戦後70年■
一夜で約10万人が命を落としたとされる1945年3月の東京大空襲は10日、70年の節目を迎えた。遺骨が安置されている東京都慰霊堂(墨田区)では追悼法要が営まれ、遺族らが犠牲者の冥福を祈り、平和を願った。
安倍晋三首相は追悼の辞で「過去に謙虚に向き合い、悲惨な戦争の教訓を深く胸に刻みながら、世界の恒久平和のために、あたう限り貢献する」と述べた。主催した東京都慰霊協会によると、首相の参列は初めてとみられる。
太平洋戦争末期は、東京大空襲の後に名古屋や大阪、神戸などの都市でも空襲被害が相次いだ。民間人の戦争被害を補償する支援法の制定を求める動きがあるが、実現への道筋は見えていない。
法要には約600人が出席。舛添要一知事は「平和の祭典である五輪の開催都市として、今日の平和を次の世代に引き継いでいく責務を果たす」と語った。秋篠宮ご夫妻も参列し、焼香された。多くの人が訪れ、献花する姿も見られた。
都によると、昨年1年間で新たに174人の犠牲者の氏名が判明。都が作成、保管している犠牲者名簿の人数は計8万324人になった。
●幼子抱く母親 一瞬で炎にのまれた 出動の元消防士「3・10」語る
「助けてください」。幼子を抱いた若い母親が一瞬で炎にのみ込まれた‐。東京大空襲で消防士として下町の火災現場に出動した加瀬勇さん(89)=千葉県習志野市=は、救えなかった人々の姿が70年を経てもまぶたに焼き付いている。
1944年、出征で足りなくなった消防士を補充するため採用年齢を引き下げた「年少消防官」として、当時の警視庁消防部に18歳で入庁。城東区(現在の江東区の東側)を管轄する城東消防署に配属になった。
45年3月10日未明、ポンプ車を置いていた鉄道の車両工場から同僚4、5人とともに出動。勤務していた砂町出張所を目指したが、周囲はあっという間に火の海に。見上げると、米軍の爆撃機B29が夜空を埋めていた。火の勢いが強すぎて消火活動ができず「どこへ行こうとしても、車より速く火が走っていった」。
「助けられなかった人たちのことは、何年たっても頭から離れない」と加瀬さん。救助を求めてきた20人ほどが、目の前で風にあおられた炎に包まれた。「風向き一つで、人はこんなに簡単に死んでしまうのか」
ポンプ車は燃えさかる民家に誤って突入し、後退したところで停止した。ふと気付くと、乗員は自分と運転手の2人だけになっていた。加瀬さんは炎の中を100メートルほど走り、素掘りの防空壕(ごう)に頭から突っ込んで夜明けを待った。戦後、同僚の一人と再会できたが、運転手らほかの仲間は犠牲になったとみられる。
当時のポンプ車は消防士用の車内スペースがなく、車両外側の金属の棒につかまっていた。炎と熱で全身に大やけどを負い、骨が見えるほど重傷だった右手は、後遺症で今も指が動かせない。
60年まで城東消防署に勤務した後、退職。今年3月5日、55年ぶりにかつての職場を訪れ、若い署員や消防団員ら約100人を前に講演した。「空襲は人が人を殺す犯罪。二度とあってはならない。風化させず伝えていかなくては」と訴えた。
