ハワイでは2つのクールジャパンが大ブームだ。
1つは「丸亀製麺」だ。ワイキキ地域で最もにぎわっているお店が、ほかならぬ丸亀製麺なのだ。舌の慣れた日本人観光客で賑わうならまだしも、店の外にアメリカ人が律儀に並んでいる光景は驚いた。最近では競合の伊予製麺もホノルルに進出している。
もう1つが「けんだま」。日本人を驚かすための仕込みなんじゃないかというくらいに、ハワイのあちこちで現地の子どもがけんだま遊びをしていた。おもちゃ屋にはけんだまが必ずあって、量販店の折込チラシにも色々なけんだまが紹介されていた。
丸亀製麺もけんだまも日本人には何も珍しくないことだ。当たり前すぎて気にも留めず無関心になりがちである。しかし、日本文化そのものが珍しいハワイの民からすれば「ユニーク」なのである。
同様に、韓国のソウルでは、日本式居酒屋やユニクロがブームになっている。いわゆる「出羽の守」はクールジャパンの存在を否定するが、実際には日本のサブカルはかなり海外に波及力があるのが事実だ。
そしてふと気づかされることが、「新しいことを知る」と言う発想が、日本では、大都市でないと成立しなくなってることだ。
地方都市はチェーン店で満たされるようになったものの、それらは日本人にとってありふれた選択肢だ。スタバやマクドナルドやプレミアムアウトレットのような外資であってもそうである。たとえ地元に進出したのが昨日のことだろうが、生まれて初めて行くというわけではないし、ブランドや業態が日本の日常に存在することは知っていて久しいのが当たり前だ。
全国チェーンが普及したことで、東京と地方の消費文化の格差が是正されたとされる声もあるが、本当にそうだろうか。流行の発信地は今も東京である。独自の都市文化を展開する場所も、横浜や大阪等相変わらず大都市のままである。
それより何より問題なのが、欠乏感を失った地方都市が保守化したことである。
消費文化がそもそも地方に存在しない時代であれば強い渇望意識があった。だから戦後からバブル期にかけて若者はこぞって東京に一極集中したわけだが、今のように「ほどよく満たされている」状態ではどうだろう。「新しいことを知る」楽しみ自体がなくなってしまっているのである。
地方都市に生まれ育って20年経って東京に集りにきた平成生まれのイオンネイティブの20代の若者たちはみな、東京育ちに比べるとかなり寛容性に欠けている。どの街も全く同じ店が全く同じように並ぶロードサイドの光景あるいはイオンモールの館内構図よろしく固定観念が凝り固まったため、それから逸脱する文化がまるでこの世に存在しないかのような感覚がある。
サブカル崩れは、他人と違うことをやっているようで誰もがクローンのようにそっくりである。みんなお上りさんだ。「マイルドヤンキーの逆張り」をやっているだけである。EXILEではなくロキノン系を聴き、しまむらではなくコムサのモッズコートをはおって、4車線国道と対照的な風情のある東京の狭い路地裏の写真を撮るようなちりちりパーマの若者はいくらでもいるが、彼らほど没個性の存在は無いと思う。
東京育ちの、いっけんすると地味だったり、マイルドヤンキーみたいな雰囲気の子があっけらかんと話すその人らしい個性的な考えや趣味の話の方がよほどユニークであることについて、幾ら流暢な標準語をつかさどっても東京に確固たる地盤をもてず、20年ロードサイドで培った農耕民族の精神風土を絶対に脱却できない彼らはコンプレックスを感じているのだ。
日本では長らくメディアの王様は地上波テレビの民放キー局だった。
約60年前の放送開始以来、テレビ番組は毎年洗練されていき、全く新しい企画・表現の番組がたくさん作られ、それに伴い、CMも新しい表現を開拓していった。像が踏んでも壊れない筆箱や、エリマキトカゲ、100歳を超えているのに元気に生きているきんさんぎんさんなど、あっと驚くものを映し続けてきた。それは、「新しいことを知る」ことを楽しみとする国民が沢山いたからだ。
しかし都市部では早いうちにメディアの発展が進んだ。「新しいことを知る」ことを求める人は1995年以降はどんどんインターネットに流れて行った。2000年代後半からは本格的にテレビ離れが進み、広告予算が減退。すると日本のテレビ文化の世界から「新しいことを知る」ことを求めるニーズは引き裂かれていった。単なる情報を得るだけならネットに没頭すればいいし、「好奇心を刺激するテレビ番組」を見たいなら、CS放送でディスカバリーチャンネルでも見ていた方がいいと言う時代はもう私が小学生の頃から10年以上続いている。
そんなわけで、いまの地上波テレビはファスト風土のマイルドヤンキー家庭を相手に作られていて、視聴者も大半はB層である彼らだ。結果的に、2014年のテレビ地上波は、四六時中つけっぱなしにしてみても「新しいこと」は何もなくなっている。私は湘南育ちでハマっ子のミーハーなのでとても退屈し、ストレスすらたまってしまうのだが、これが地方ではウケるらしい。
福島県から親戚がわが家に泊まりに来ると、彼らはひたすらテレビをつけて、「東京のテレビはさすが楽しい!」とでも思っていそうなくらい食い入るようにして関東ローカルのワイドショーをガン観して大喜びしている。
普段の我が家ではテレビはもはや、食事時に「ながら」視聴するか、夜中にCS放送や映画を見るかXBOXを楽しむ媒体となっているので、異文化に驚いてしまう。だが、彼らのような存在が日本の国道沿いには無数に存在し、それがキー局のメインのお客様なのである。彼らにうっかりインターネットなんて与えてしまうと、匿名ネットの原住民のようになるのだろう。
だが、この日本の地方都市で「新しいことを知る」楽しみが成立しなくなっていることは、日本の文化の将来を考えるとかなり問題ではないだろうか。
今はまだバブル時代に繁栄した基盤があるからいいが、今後はそうもいられなくなる。「新しいことを知る」ことを辞めた人は低迷の当事者であり、自分の中にある閉鎖的で内向きな常識以外の概念に不寛容な、融通の利かない御人である。
たまたま天に恵まれ、東京に生まれ育たない限り、「文化の機会較差」が生じてしまう時代になる。これは大きな問題ではないか。途上国は今後グングン急成長し、中産階級が生じるようになり、地方都市の一般レベルはあっという間に一気に抜かれてしまう。すでに、中国の富裕層やソウル・台北・香港・シンガポールのレベルの成熟した大都市住民の平均値は地方の県庁所在地をはるかに上回っている現実がある。
日本では、文化の格差を解消するための行政施策は何もない。そもそも文化は経済的な生産行為の対価と見なされている風潮が根強いのだ。
地方都市では「新しいことを知る場」はどんどん減っている。どんな田舎の県にも1つくらいは凝ったコンセプトで作られた本格的なテーマパークがあったが、それらは潰れ続けていてそろそろハウステンボス以外全滅するんじゃないかと思われる。テーマパークは、単なるジェットコースターや観覧車の集まりである遊園地と違い、日常離れしたテーマの世界を作り、それを疑似体験する場だが、そこまで高次元な娯楽は舞浜のような都会じゃないと成立できなくなっている。
公立の博物館・美術館等の文化施設も、失業者や生活保護の無料入場制度を設けることはなく、イオンにたむろす子どもたちに芸術の魅力を伝えるための施策づくりをするなどの努力を何ひとつせずに、地方では風前の灯火となったわずかな文化的階層(高度成長期に地元の既得権にあぐらをかいたことで豊かになった高齢者層)のために赤字経営を続け、彼らの感覚に合わせたキュレーションや情報発信を続け、大義名分にあるはずの地域の文化の向上に寄与することを何もせず、むしろ格差を拡大させる元凶になっている。
地方創生とか、観光立国とか、ましてやクールジャパンを吹聴するなら真っ先に改善すべき課題は、地方の若い世代、子ども世代の文化環境の改善だろうが、選挙の争点にすらならないのだからひどいものである。