"生活保護"という最前線に送られた新兵たちの苦闘。柏木ハルコ「健康で文化的な最低限度の生活」
昔、どんづまりの人を見たことがある。
私は三十代半ばまでサラリーマン生活をしていた。富山の置き薬みたいなルート販売をやっている製薬会社に勤務していた。ドラッグストアが乱立している今、若い人にはなじみがないかもしれない。「薬箱を家に置かせてもらって、使った分だけお代をいただく仕組みです。いざとなったら役に立ちますよ。なかには風邪薬も鎮痛剤も入ってます」などと、二十代のころは新聞の拡張団のように一軒一軒飛びこんでは、関東や九州に行って開拓に励んだ。
拡張したあとは契約社員の仕事だ。約4~5か月に一度は巡回して、お代の回収&薬の売りこみといったルートセールスをする。彼ら契約社員の動向をチェックするのも私の仕事だった。訪問件数はどうか、売上金はどうなってるか……要は彼らの仕事ぶりを監視する役目だ。非常にアナクロで泥臭い商売なので、契約社員のなかにはワケありの人もけっこういた。
九州で働いていたとき、客から回収した売上金を持って、どっかに消えた契約社員がいた。監視役としては一大事である。自宅を張りこむなどして、一昼夜かけ、いろいろあって捕えることができた。へとへとになりながら事情を訊くと、やはり借金があったということで、返済のために使ってしまったという。その契約社員は「もう自殺するつもりでいました」などと土下座して言う。本当かどうかはわからないが、その顔色は炭でもこすりつけたようにドス黒く、あきらかに死相というものが浮かんでいた。半分くらい、あの世に足を突っこんでいる感じがした。保証人であるお兄さんとも相談し、使ってしまった売上金は分割して支払うことに決まったが、もうそのころは私の精神もすり減っていた。
……前書きが長くなったけれども、今回取り上げるのは柏木ハルコの新作『健康で文化的な最低限度の生活』(小学館)である。オビにはでっかく、「生活保護って何?」とある。東京都東区役所に就職したばかりの公務員・義経えみるは、福祉事務所で生活保護をいきなり担当。ケースワーカー業務に就き、生活保護を必要とする困窮した人々と向き合うこととなる。現代日本におけるホットなテーマであり、政治的な問題も孕んでいるため、ベテランの作者がこの難題をどう料理するのか。興味深く読んだ。第1巻では、ドジッ娘で半人前な主人公が、ギリギリ生活の人々にひたすら翻弄されまくる。
第1巻では、さまざまな生活保護受給者の姿が描かれる。認知症が急激に進んで、お漏らししたことにも気づかない老婆。残業に続く残業で、精神を病んでしまった青年。見た目はおしとやかだが、子供にイライラをぶつけまくっているシングルマザーなど。
ケースワーカーは受給者にすみやかに社会復帰してもらうため、求職活動などをガンガン勧めるが、それがまた逆に受給者を追いこむ結果となるなど、臨機応変な対応が求められる。どれほど話し合っても、受給者の内面や状況を完全に把握するのは難しい。新人えみるも110件もの世帯の面倒を見なければならない。彼女は懸命に受給者に寄り添おうとするが……。
ケースワーカーと生活保護のコミックといえば、2011年に刊行された『わたし、公僕でがんばってました。』(古林海月 中経出版)がある。関西H県県庁職員として9年間勤めてきた作者が、公僕の世界を振り返るというエッセイ(作風がいささか地味だが、公務員の内情がよくわかる)だが、なんともすさまじかったのは、作者が辞職を決めるきっかけとなるケースワーカー時代のところ。
「アンタ桶に入った寿司食うたやろ/アタシが死んだらアンタのせいやで!」と、公務員バッシングの電話がかかってくるのは序の口。ゴミ屋敷状態の家を訪問したおかげで疥癬(カイセン)にかかった者もいれば、二階から熱湯をかけられる者、生活保護申請を却下された腹いせに、刃物で追いかけられる者も。
「胃潰瘍、口内炎、過敏性腸症候群、円形脱毛、眼底出血/生活保護のケースワーカーは病気のデパートです」と作者は言う。作者も例外ではなく、嫌がらせの電話をしょっちゅう受け、保護費を減額された受給者に「訴えてやる」と脅され、胃潰瘍や十二指腸潰瘍を患い、激しい生理痛と嘔吐で救急車の世話にもなる。
困窮した人々と向き合うのは、言うまでもないが楽ではない。一種の戦場のようなものだろうと、サラリーマン時代を思い出しながら読んだ。そこに送られた新兵えみるが果たしてどのように成長していくのか、またどのような“最低限度の生活”を求める人々が登場し、ドラマが出来上がっていくのか。その先に待っているのは、決して爽快でのどかな話ではないだろう。だが、もっとも目が離せない一冊でもある。
1975年生まれ、山形県在住。第3回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞し、2005年『果てしなき渇き』(宝島社文庫)でデビュー、累計50万部のベストセラーを記録。他の著書に『ダブル』(幻冬舎)『デッドクルージング』(宝島社文庫)など。女性刑事小説・八神瑛子シリーズ『アウトバーン』『アウトクラッシュ』『アウトサイダー』(幻冬舎文庫)が、累計40万部突破中。
『果てしなき渇き』を原作とした『渇き。』が2014年6月に映画化。
ブログ「深町秋生のベテラン日記」も好評。ブログはこちらからご覧いただけます。
深町氏は山形小説家(ライター)になろう講座出身。詳細は文庫版『果てしなき渇き』の池上冬樹氏の解説参照。詳しくはこちらからご覧いただけます。