書きたかったテーマの一つ。
意識高い系の人間は何故嫌われるのか。
私、自分自身もどちらかといえば意識高い系の人間に属しているのは理解している。
どうして、こんなにも嫌われて、取り上げられる対象となっているのか考えてみたい。
そもそもこの記事を書こうと思ったのが、上の画像との出合い。
なるほどなと感心させられた。
意識高い系とは
何故嫌われているかを考えるにあたって、そもそも意識高い系の人間とはどういう人間なのかということを定義しなければならない。
こういうふうに定義定義言い出すのも、就活にどっぷり染まった”意識高い”行動のように聞こえるのかもしれないが・・・
上の画像はとてもうまくできていると思う。
目立ちたい⇔隠れたい
実力あり⇔実力なし
の2軸を設定して、4区画にうまく分類が出来ている。
日本人らしさとして、自分は左下なんだと自己評価しているところも大事な要素である。
能ある鷹は爪を隠すといったことわざも、わざと自分が左下であるかのように振舞うといった日本人の謙虚さをよく表している。
そして、右上は最近の社会において出現するようになってきたと考えられる区画。
やることが派手で素晴らしいので、それを憧れる人間も出てくる。
そして、右下は本来、NULLであるはずの場所なのだが、右上が輝けば輝くほど、その影のようにあらわれてきたのが、右下の「意識高い系」人間なのではないか。
”意識高い系”が混同されている
右下の目立ちたいだけの中身空っぽ人間を意識高い系であると定義ができたが、
一般に使われる意識高い系という表現とは、少し摩擦を感じる。
中には優秀な人も意識高い系と評されてしまっているように感じるのだ。
それは、ビジネスの世界、就活の世界において、目立っている、チャラチャラとした人間だというだけで、左側の人間が右側をただ非難しているように。
ここで小休止
定義の話はこの辺にしておく。これだけでも、一つの記事が書けたなと反省。
自分も意識高い系の人間、インターンや面接で幾度となくリーダーを勝手出てきたが、今思えば自分はリーダーは向いていない。
どちらかというと、自分でグイグイいくワンマンタイプの人間である。
勿論色んな人と協力していくことのほうがより大きな力を生み出すことができるのは理解しているのだが、どうしても自分の能力の頭の回転と他の人に合わせなければならないとなると自分でやってしまうことが多々ある。
そんな人間がリーダーをやるのは向いていなくって、どちらかというとトップ営業マンのようなエース格に向いているのではないかそんなふうに考えるようになった。
エースとリーダー。アイドルでも違うよねって話。
大好きな山本彩は、エースでリーダーであるけれども、彼女はエースタイプなんだよ。
この小話でもまた1記事書けそうだ。興味がある人はコメント、はてブなどで待ってます。
必ず返信または新しい記事書きます。
さて本題
意識高い系は何故嫌われるのか
定義がぼんやりしていると書いたばかりだが、そのぼんやりとしたままにいこうと思う。
嫌われているのが、右下だけではないからだ。右上もまた嫌われている。
嫌われる理由は多くあると思うが、考えついたのは以下の通り。
”意識高い”語
兎に角、意識高い学生が使う言葉が一般的に使われている言葉と異なること。
わざわざ英語にして、いう必要がある?ということだ。
コミット、インセンティブ、ゼロベース、コンセンサス、アジェンダ・・・
ぱっと思いついただけでこれだけあるのだが、意識高い学生と話していると普段使わない言葉が多く出てくる。
こいつらと会話していると、お前はルー大柴か、と突っ込みたくなる。
そもそも、こんな言葉ばっかり使っていると???となって、話している内容が入ってこなくなる。
どんなに素晴らしい話をしていたとしても、相手に伝える努力ができていなければクソなのだ。
自分たちが賢そうに見えるからというだけで使っている、ただそれだから嫌われる。
自分の能力ではなく、他人の褌
SNSへの過剰投稿
二つが関わる部分が多いので、まとめた。
自分のアウトプットとして、SNSに投稿するのは、わかる。
しかしながら、他人の自慢をあたかも自分のことのように広げていく傾向が強いのが意識高い系ではないだろうか?
どこからの偉い人の公演を聞いてきた、ある人の本を読んだだの、コラムをシェアして、凄いだのなんだの・・・
意識高い系の人と関わりがある人ならば、あーあれかと思い当たるだろう。
そこで腑に落ちないのが、どうも自分自身で考えてどうこうするというよりも、他人の権威、名声などを使う、虎の威を借る狐状態なのではないだろうか。
何故嫌われるか、まとめると・・・エゴイストだから
結局のところ、何故意識高い系が嫌われるのかというと、その人たちは、自分の幸福のためにやっていることだから。
自分がこんなにもすごいことをやっているんだ、自分はこんなにも賢いんだ、
それを世に知らしめたい。
自分を必要以上に大きく見せたい、そんなエゴでしかない人間だから嫌われるのだろう。
画像に戻れば、出る杭は打たれる。
目立つ人間は批判の的となる。それもまた一種のステータスであろう。
それでも、世のため人のために頑張っている人たちに私はなりたいなと思う。
決して自分自身のエゴのために、中身のない人間にならないために。