「永遠の0」にとんでもない難癖をつけてしまった京都大学大学院教授

藤井聡の永遠の0への失望の仕方

 2014年9月9日の『三橋貴明の「新」日本経済新聞』に、京都大学大学院工学研究科教授の藤井聡の記事『永遠に「ゼロ」?』が掲載されました。
 こう言っては失礼ですが、読んでいてあまりの低レベルに脱力してしまいました。ここまで酷いと失望するしかないのですが、脱力するだけでは疲労が蓄積されるだけですので、何とか建設的な議論を展開してみようと思います。

大ヒットしたから好きになれないという言論はいかがなものか?

 藤井は、『永遠の0』について次のように述べています。

この物語がどうしても好きになれませんでした.その根本的理由は,「これだけの大ヒットは,今日の日本を覆う『大衆社会』の大衆人の『俗情』と結託せずして生じ得るはずなどないだろう...」というだけの安易な理由でしたが,それだけでは批判する根拠も十分でもありませんし,この物語に対して批判を差し向けると,世論,とりわけ,いわゆる「保守」陣営の方々を中心として,かなりの反発があるだろう….と予期し,面倒なので,取り立ててこの物語について論評する事を避けてきました.

 今日の日本で大ヒットしているから好きなれないというのは、正直なところ私には理解しがたい感情です。大ヒットしていて素晴らしい作品もあれば、酷い作品もあるわけですから。ヒットの有無は好悪の「根本的理由」にはならないし、してはならないと私は考えています。
大ヒット作品が素晴らしいとは限らないというのは、いわゆる大衆批判において参照すべき見解だとは思います。しかし、大ヒットしているから好きになれないというのは、密かに思っている分には良いでしょうが、公式に表明してしまう感性には違和感を覚えます。そこには、大衆批判が好きな仲間内で、大衆の悪口を言って悦に入るという後ろ暗い情念が透けて見えるからです。

「保守」陣営で藤井大先生に反発する人とは?

また、『永遠の0』を批判すると「保守」陣営から反発があるというのは本当でしょうか? 藤井が『永遠の0』批判を開始したのは、『表現者 2014年 09月号』の『戦う以前にウソを見抜け』という原稿からでしょう。ここでの藤井の見解に対し、私は『藤井聡『戦う以前にウソを見抜け』のウソを見抜け』という記事などで非難しました。ただし、私は、「ホシュ派」でも「保守派」でも「真正保守派」でもありません。
藤井の『永遠の0』批判について、「保守」陣営や他陣営からの反発をご存知の方がおられましたら、(コメントなどで)是非とも教えていただきたいです。藤井聡大先生の『永遠の0』批判に対し、反発するような不届きな人物の意見を是非とも読んでみたいものですから。

不都合な部分はちゃっかり改竄

 私の記事なのか他の人の意見なのかは分かりませんが、藤井の『永遠の0』批判に対し何らかの批判が出たため、藤井はそれに応えなければならなくなったようです。

先日,とある雑誌の原稿で,ある映画作品を批判し,その最後に「『永遠のゼロ』においても、同様の構造を見いだす事ができる。」と一文を追記したのですが,この一点がやはり,一部,批判を呼ぶこととなりました.

ここでの「とある雑誌」とは『表現者 2014年 09月号』のことで、ある映画作品とは『男たちの大和』のことです。ここで、具体的な雑誌名を出していないということに注目できるかどうかは、けっこう重要ですよ。
続けて藤井は、次のように論理を展開していきます。

確かに『永遠の0』がなぜ,「批判されるべき構造にあるか」については一切言及しておりませんでしたので,ここに至っては致し方無し...ということで,本日は『永遠の0』について,改めてどの様に当方が感じているかを,記載することと致した次第です.

 ここまでで、藤井の論理がおかしいことに気づいてほしいのです。
 藤井は、とある雑誌の原稿で、ある映画作品(『男たちの大和』)を批判しています。その批判の構造は、『永遠の0』でも同様だと言っているわけです。ですから、藤井は『永遠の0』を批判する構造をすでに示しているはずなのです。なぜか具体名を伏せている雑誌の原稿の中で。
 では、『戦う以前にウソを見抜け』から問題の箇所を引用してみましょう。

 つまりは多くの人々が、とりわけ「ホシュ」と呼ばれる人々が賛辞を送りがちなこうした物語ですら、山本常朝の「生と死」の思想は、徹底的に排除されているのである。
 そして、戦争という国家の命運を分ける戦いの中における妻子への愛情という「生に向かう私的な欲望」を描いた『永遠の0』においても、同様の構造を見いだすことができる。

 藤井は、『永遠の0』とは私的な欲望を描いたものであり、そこには山本常朝の思想が排除されていると言って批判しているわけです。つまり、勝手に山本常朝の『葉隠』を持ち出し、さらには勝手に『葉隠』思想を曲解し、勝手にダメ出ししているということです。その詳述については、『藤井聡『戦う以前にウソを見抜け』のウソを見抜け』を参照してください。
 このような経緯があったため、藤井はその批判を繰り返せばよかっただけなのですが、なぜか「一切言及しておりませんでした」と言い出しているのです。まあ、その批判が致命的におかしなものだったことに気づいたので、それはなかったことにして、新たに別の批判理由を作り上げたということなのでしょう。
そのために藤井は、

 つまりは多くの人々が、とりわけ「ホシュ」と呼ばれる人々が賛辞を送りがちなこうした物語ですら、山本常朝の「生と死」の思想は、徹底的に排除されているのである。
 そして、戦争という国家の命運を分ける戦いの中における妻子への愛情という「生に向かう私的な欲望」を描いた
『永遠の0』においても、同様の構造を見いだすことができる。

 上記のように、実際の記述から(藤井にとって)不都合な部分を削除して引用しているのです。その上で、

確かに『永遠の0』がなぜ,「批判されるべき構造にあるか」については一切言及しておりませんでした

という文言を追加しているのです。これで、不都合な箇所は、『三橋貴明の「新」日本経済新聞』の読者には知られずにすませられます。藤井聡大先生のお言葉が本当かどうか実際に確かめてみようとするような人は、ほとんどいないということを見越した上で、念のために「とある雑誌」と具体名を伏せることで調べる経路をふさいでいるわけです。実に鮮やかな手法であり、その手口には驚嘆の念を抱いてしまうほどです。
 ただ、これって「改竄」ですよね。あまりに当たり前過ぎて言うのが気恥ずかしいのですが、「改竄」はいけないことですよ。

息子のご利用は計画的に

 さて、藤井は『戦う以前にウソを見抜け』での批判内容を封印し、『永遠に「ゼロ」?』で新たな『永遠の0』批判の理屈をひねり出しています。
 その新しい批判に対して検討しようと思うのですが、藤井は彼の家族の意見を持ち出しながら論じていくのです。その上で、

そしてここに記載する責任は全て「藤井聡一個人にのみある」事を強く明記しつつ,本稿を終えたいと思います.

と締めています。
 私もできれば藤井聡一個人のみを批判したいのですが、問題の記事では藤井家の人たちがそろって『永遠の0』を批判しているというか、バカにしていくという構成になっています。そのため藤井聡への批判が、彼の息子への批判にもなってしまいます。彼の中三の息子や小六の息子を非難することには心が痛みますが、いたし方ありません。
 家族に意見を求めることや、家族の会話からアイディアを得たりすることはまったく構いませんが、それらをまとめた上で藤井聡一個人の見解として提示すべきでした。家族の会話という形式にするべきではなかったと思います。

特攻で失った夫に代わり、生活を支えた後輩との再婚をキモイと嘲笑

 主人公の宮部が特攻に行くとき、後輩に家族を助けて欲しいというメモを渡します。その後輩は約束を守るために、宮部の妻子を見つけ出します。妻子を助けていくうちに情が募り、その後輩は宮部の妻に告白し結婚します。そのとき、小説版では、戦争が終わってから九年が経過していたと記されています。
それらのシーンについての藤井家の会話は以下の通りです。

父「おまえ,仮にこの主人公みたいな立場になったら,自分の奥さんと子供の事を助けて欲しい,ってメモ,渡すか?」
中三「そんなん,わたすわけ無いやん」
父「せやなぁ.まぁ,ここは普通,嫁さん宛の手紙やなぁ.それやったら逆に,このメモ,渡されたらお前,この奥さんに,こんな告白じみたこと言うか?」
中三「そんなん絶対ゆわんわ.だいたい,先輩に失礼やろ.まじキモい.」
親子(大爆笑)

 宮部は自分が特攻で死んだら、妻子が困窮してしまうことを分かっていました。ですから、後輩へ支援を頼んだとしても何の不思議もありません。別に嫁宛の手紙を書いても一向に構いませんが、それが残された妻子を頼むことの非難にはならないでしょう。あまりにも愚かな批判だとしか言いようがありません。
 また、復員軍人と戦争未亡人の再婚は現実にいくらでもあった事例です。支援することから情が生まれた事例もいくつもあったでしょう。確かに、純愛を貫いて再婚しなかった女性の高潔さは賞賛に値します。しかし、それが再婚した者たちを否定して良い理由にはなりえません。藤井は、

本稿は戦前に戦った方々を貶めるものでは断じてありません.

と述べていますが、とてもそうは思えません。類似例がいくらもあるからです。
ここで示された「キモい」という言葉、それを親子そろって大爆笑するということ、さらには、それを公開するということ。人の道を踏み外すという実例を見せていただきました。

人間関係を無視した視点

 藤井のトンデモ批判はまだまだ続きます。年老いた後輩の大石が、宮部が特攻した理由を言葉にできるようなことではないと言ったことに対し、息子からツッコミが入ります。それを受けて、映画を見ながらメモを取っていた藤井は息子に次のように言うのです。

「さっき,この主人公,特攻に行く前の段階で,自分が教え込んだ生徒達が特攻に行って,バタバタ死んでいくのを観続けてた時,こんなんゆーてはったやろ.

『おれは逃げた.彼等を見殺しにした.
おれは,彼等の犠牲の上に生きながらえている.
彼等が死ぬ事で,生き延びている.
おれはどうすればいい.』

こう言うとったけど,なんで特攻行ったか,言葉にできひんか?」

 言葉にできません。なぜなら、上記の言葉を聴いたのは景浦(ヤクザの人)であり、大石とは別人だからです。景浦が大石へ、宮部の言葉を伝えた描写も存在していません。視聴者はすでにこの時点で、宮部に対する多くの情報を得ています。しかし、大石が知っている宮部に関する情報は限られたものなのです。ですから大石は、私にははっきりとは言葉にできないと述べているのです。
 『永遠の0』は、適当にななめ読みしていても最後に探偵が犯人を教えてくれる探偵小説とは違います。本作品では、宮部の孫である健太郎が、宮部と関わった生き残りの人たちの話を聞いて回ります。生き残りの人物たちの証言は、宮部のピース(小片)なのです。全体を注意深く読み込み、いくつものピースを合わせていくことで、宮部という人物が浮かび上がるように緻密に構成されているのです。ですから宮部が景浦に語った言葉も、宮部の特攻理由の大きな要因の一つであることは間違いありません。さらに他の人物の証言も合わせて考えることで、宮部という人物が何を考えていたのかが健太郎および読者には仄見えてくるのです。もちろん、そこには想像の余地も残されています。
 そういった繊細な作品なわけですから、誰が誰に何を言ったかを度外視して意見を言うのは勘弁してほしいですね。

それはトンデモ難癖というもの

 映画を見終わった藤井は、作中のセリフに難癖をつけ始めます。宮部が後輩に助けられ生き延び、そのために後輩は大怪我をしてしまう場面があります。そのとき後輩は、宮部は死んではいけない人だと伝えるのですが、宮部はあなた方こそ生きてこの国のために立派な仕事をするべきだと後輩に怒るのです。
そのセリフに対し藤井の息子は、父が素直に感じた気持ちを代弁して次のように言うわけです。

息子「立派な仕事するべきって,『お前! 今オレ,お前助けるって仕事したんやけど,そのオレの仕事は,立派ちゃうんかぁ!?』って思う.」

 別に立派だって褒めても良いですよ。でも、それが宮部のセリフの批判にはなりえないでしょう。いちいち解説するのも野暮ですが、宮部のセリフは、自分(宮部)が死んでもあなた(後輩)は生き残るべきだという意味なのです。
 分かりやすくするために、自分の身に置き換えて考えて見ましょう。例えば、私と友人が一緒に道を歩いているとしましょう。そのとき、暴走車が私に向かってくるのですが、友人が私をかばって死んでしまいます。生き残った私は死んだ友人に対し、「お前は命を懸けて私を助けたから立派だ」と思うでしょうか?
 私なら、とてもそうは思えません。「私なんかをかばって死ぬなんてバカなことだ。死ぬなら、お前ではなく私が死ぬべきだった
と考えると思うからです。
 つまりこの場面では、宮部と後輩のお互いが、自分よりも相手の命を優先して考えているという感動的な場面なのです。後輩はバカではないので、そんなことは分かっているでしょう。自分の命を捨てても守る価値のある人が、同じように、相手(後輩)の方が生き残るべきだと言っているのです。私なら、立派だと言われるよりも、はるかに嬉しく感じられるだろうと思います。その心の機微は、『永遠の0』を見た人たちには是非とも感じ取っていただきたいものです。

多様な考えの一部を取り出して、他の意見を批判する危険性

 さらに藤井の難癖は続きます。宮部は教え子たちが特攻で死んでいく様を思い起こし、戦争が終わった後の日本のために生き残るべきだったと言うのです。そのセリフに対し息子は、父が素直に感じた気持ちを代弁して次のように言うわけです。

息子「そんなん『戦争終わった後の日本』って,戦ってはった時,そんなんがあるかどうかなんてわからへんやん.日本が無くなるかもしれんかったんやろ?」

 この意見には、一理あります。ですが、宮部の意見にも一理あるのです。映画を見れば分かりますが、この時点ではアメリカ側の対策により、特攻の戦略的優位性がほとんどなくなっています。宮部の教え子たちは、敵に一矢報いる前に撃墜されてしまうのです。有効な手がもはや打てなくなっているという状況、教え子の生命が無残に消えていくという現実。宮部が、教え子たちは戦後の日本に生き残るべきだったと考えて、何がおかしいというのでしょう。
当時の資料を眺めるだけでも、いろんな人がいろんな考えをもっていたことが分かります。例えば、特攻で亡くなった西田高光中尉は、負けを見据えた上で、講和の条件やその後の日本人の運命について考えていました。
陸軍大将の栗林忠道は、バンザイ突撃による玉砕を禁止し、部下に徹底抗戦を指示しました。彼は総指揮官として硫黄島(いおうとう)へ出向く際に、彼を慕う貞岡信喜の同行を許しませんでした。そのため貞岡は、戦後日本に生き残ることができました。
昭和天皇は、戦争継続が国体も国家の将来もなくしてしまうことを憂慮し、ご聖断を下されました。
他にも、帯で百田尚樹氏が絶賛している『零戦 最後の証言(神立尚紀)』を読めば、あの時代に生きた人々がそれぞれに様々な考え方を持って生きていたことが分かります。当たり前と言えば、実に当たり前の話です。
 それぞれの考え方には、それぞれの理があるのです。ですから問題は、多様な考えの一部を取り出して、他の意見を批判するということの危険性にあるのです。

権力者に都合の良い手法に共感する権力者

 既に他の方々からも批判が挙がっていますが、次の親子の会話はひどすぎます。

息子 「それにそもそも,こっちからケンカうったんやろ? アメリカに. それやったら,とことんやらな,しゃあないやん」(注:標準語で言うと,最後の一言は「だったら,とことんやらなければ仕方が無いじゃ無いか」)
父 「なるほど,そらそやなぁ,だいたい,真珠湾で最初にイッたったんは,こっちやからなぁ….

 真珠湾攻撃については、アメリカが欧米を巻き込んで日本を追い込み、日本が先に手を出さざるを得ない状況を作り上げたというのはもはや常識です。フライングタイガース隊、在米日本資産の凍結、日本への石油輸出の禁止、ハルノートなどなど。
 私が心の底から嫌だと思うのは、こういった強者が弱者を追い込み、手を出させて正当性を演出してから攻撃するという手法そのものです。これって、経済強者や政治権力者にとって、非常に魅力的な方法なのです。ですから私は、アメリカが日本にしたことに怒りを覚えます。もし日本が、正当な理由無く弱小国にこの手法を使うなら、日本政府を批判します。当たり前の話です。
この手法は、国単位でも、団体単位でも、個人単位でも使用可能な汎用性の高いものです。ですから、権力者がこの手法に共感を寄せるのを見ると、私は薄ら寒くなります。
 そういえば藤井聡は、京都大学大学院工学研究科教授であり、同大学レジリエンス研究ユニット長であり、第2次安倍内閣の内閣官房参与でしたね。日本どころか、世界中のどこに出しても恥ずかしくない立派な権力者でしたね。

思うことについて

 次の文章も、ただただ脱力してしまったのですが、頑張って論じてみましょう。

下の息子は「えっ,それってみんなにメチャクチャ言われるんちゃうの? でも,思ってること書いたらあかんって,マジでぜんっっぜん意味わからへんわ」とも宣っておりました [←ありがとう!]).

 これも解説することが恥ずかしいレベルですが、「思っている」というそのことを根拠に、書くことの正統性を主張することには無理があります。
 子供が「なんで思っていることを言っちゃいけないの?」と問うのなら、親は「思っていても言って良いことと悪いことがある
と躾なければなりません。子供の発達段階に応じては、「言うべきこと」と「言うべきでないこと」があるということを一緒に考えてあげることも必要でしょう。これは、「言う」を「書く」に変えても同様に成り立ちます。
 それにしましても、小六にもなってこんなことを言い、父親である京都大学の教授がそれにありがとう!と返すのです。世の中には、不可解なことが起こるものですね。

失望の仕方

 以上のように、藤井の『永遠に「ゼロ」?』について検討してきました。あまりの低レベルに失望し、無気力になってしまいそうになりました。ですが、無気力になっても何も良いことはないので、藤井の批判を分析し、反面教師にすることにします。失望するにしても、有意義な失望の仕方があると思うのです。
 信じてもらえるとは思っていませんが、私は藤井が遠回しにでも『永遠の0』への非難を改めたなら、その知的誠実性を絶賛する記事を書くつもりでした。しかし、それは実現しませんでした。藤井は、

本稿はあくまでも,かの大ヒット作品こそが戦った方々に対して礼を尽くしているに見えてその実,作家と観客総ぐるみで戦った方々全員を貶めているのではないかという疑義を描写申し上げているものとしてご了解願えますと幸いです.

と述べています。しかし、藤井の『永遠の0』に対する批判を検討してみましたが、どれもイチャモンレベルでしかありませんでした。「作家と観客総ぐるみで戦った方々全員を貶めている」と言える有力な論拠は、まったく示されていませんでした。残念です。
私は今でも国土強靭化には大賛成ですが、藤井聡個人についての興味はほぼ消滅しました。今後、彼がどのような言動や振る舞いをしたとしても驚かないでしょう。
 私の今の関心は、「本物」が出てくるかどうかです。『戦う以前にウソを見抜け』は『表現者』に掲載されました。『永遠に「ゼロ」?』は『三橋貴明の「新」日本経済新聞』に掲載されました。一連の藤井の『永遠の0』批判に対し、知識人や言論人の誰かが公式に論じることがありましたら、(コメントなどで)是非とも教えていただけると助かります。そもそも現代の日本に、「本物」がいるのかどうか知りたいのです。

誹謗中傷は止めていただきたいです

 2014年9月5日に、ASREADに『藤井聡『戦う以前にウソを見抜け』のウソを見抜け』が掲載されました。私は記事の冒頭で、「私個人の責任に基づく見解であることを明記」しています。本記事についても、同様です。
 また、7日にはASREADメルマガにより、「本記事は執筆者の木下元文氏の個人的見解であり、ASREADの見解とはまったく関係ありません」と明言されました。ASREADは、私に言論の場を提供してくれただけなのです。ですから、一定のレベルに達している私への異論・反論があるなら、ASREADは掲載してくれます。
しかし、記事の掲載後、内容に対する筋の通った反論は皆無であり、「バカ記事」だとか「立場をわきまえろ」などの単なる誹謗中傷ばかりという有り様でした。それが私に来る分にはまだしも、ASREAD編集部へ非難を向ける人が出てきました。ASREAD編集部に対しては、まことに申し訳なく思っております。
 藤井聡をいくら褒め称えても良いですし、私を誹謗中傷しても良いですが(本当は嫌ですが)、ASREAD編集部への誹謗中傷だけはしないでいただきたいのです。それだけは、よろしくお願いいたします。

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西部邁

木下元文

木下元文会社員

投稿者プロフィール

1981年生。立命館大学 情報システム 大学院(修士課程)卒業。
会社員をしながら割と好き勝手に生きています。ウェブサイト「日本式論」を運営中です。

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コメント

    • 渡部幸子
    • 2014年 9月 14日

    お二人の論争、興味深く拝読させていただきました。私は、木村さんの意見に共感を覚えます。

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