例:ヒストルを奪って逃けるトロホウを追いかけるハトカー
濁点・半濁点をなしにすると、文章がちょっと間抜けに見えて可笑しい。
その可笑しさは誰でもパッと見てすぐに理解できると思うので、もう一歩踏み込んで考えてみよう。
読む場合と書く場合に分けて、まず「その1」では読む場合について。
いきなり「濁点・半濁点なし文」を目にした時に、頭の中で起きることをスローで再現するなら、以下のような段階を踏んでいる筈だ。
1 「ヒストル」という単語が見える
2 それが前後の関係から正しくは「ピストル」であり、それ以外の答はないと確信できる
3 1→2の推測が余りにも簡単すぎるため、容易に優越感を得ることができる
4 「ヒストル」以下、「逃ける」「トロホウ」「ハトカー」も同じ
つまり、
「簡単な謎→簡単な推理→簡単な正解→優越感」
という流れが、余りにも簡単なせいで、いっぺんに頭の中で処理できてしまう。
「思わず笑ってしまう」「弱そうに見える」という効果が生まれるのは、おそらく上記のような「手軽に得ることのできる優越感」に関係している。
もっと細かく考えると、こういう解釈もできる。
通常、「言葉」は「意味」を伝達する記号として使われている。
「言葉」→「意味」
「パトカー」→「警官の乗る車」
という風に。
これを、
「ハトカー」→(補正して)「パトカー」→「警官の乗る車」
という順番で判断する際には、正確には(補正して)の部分で既に「警官の乗る車」であるという認識が先に来ている。
「ハトカー」→「警官の乗る車」を意味しているのであろうな→(補正して)「パトカー」
という具合に、意味の認識が先に来てからの「パトカー」である。
これがもし、
ビズドルを奪っで逃げるドロボウを追いがげるバドガー
という文章であるとすると、補正の作業が少しややこしくなるので、面倒になってくる。
「濁点を付けることのできる文字は全て濁点あり」
「もともと濁点の付いている文字はそのまま」
という形でルールに例外や濁りが生じる分だけ、つまらなくなっている。
すると、最初の例文ほどの可笑しさや、スッキリした法則性がない。
「濁点・半濁点なし」状態の文には「補正して濁点と半濁点を付けてあげている」のだ、と読み手に思わせる・思われる点に特徴があり、読む側の優越感の入り込む余地がある。
とすると、もともと権威のある名文や古めかしい、堅苦しい、格調の高い文章を「濁点・半濁点なし文」に変換した場合、その厳めしさや権威を薄めるような効果もある筈である。
山路を登りなから、こう考えた。
智に働けは角か立つ。情に棹させは流される。意地を通せは窮屈た。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさか高しると、安い所へ引き越したくなる。とこへ越しても住みにくいと悟った時、詩か生れて、画か出来る。
人の世を作ったものは神てもなけれは鬼てもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするたたの人てある。たたの人か作った人の世か住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれは人てなしの国へ行くはかりた。人てなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世か住みにくけれは、住みにくい所をとれほとか、寛容て、束の間の命を、束の間ても住みよくせねはならぬ。ここに詩人という天職か出来て、ここに画家という使命か降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするか故に尊とい。
読み手にほどほどの注意を向けさせつつ、同時にリラックスさせることもできるので、もしかしたら世界史や日本史の教科書などは、一読した後は「濁点・半濁点なし」で読む方が、かえって頭に入りやすくなるのではないか。
将来的には電子書籍に「濁点・半濁点なし機能」が標準装備されるかもしれない。
今日の濁点なし練習文:ヒートルスのメンハーはホール、ション、ショーシ、リンコたよ。