この度、講談社学術文庫から中世イタリアの詩人ダンテ・アリギエリが著した『神曲』新訳全三巻を上梓し、完結を受けて、編集部から本の紹介の原稿依頼があったが、書き出そうとしても、からからに干上がってしまった泉のように何も湧いてこない。
そうであるのならば、本来は、文学上の父であると言ってもよい、学恩ある師、あるいは『神曲』の翻訳をしていく上で助けとなってくださったイタリアでの恩師について書くべきなのかもしれない。もちろんそう考えて、この仕事をいただいてからの十数年を振り返ってみた。けれどもぼくには、どうしても最後の最後、病院にいる父の心配をしながら、校正刷りを見返していた日々ばかりが思い出されてしまう。それにイタリア文学を志したのは、父の書棚にイタリアの作家の本があったからだ。だから、あのときに考えていたことを書いて、講談社学術文庫の『神曲』新訳の紹介とさせていただきたい。
というのも、誰の人生にもその人を象徴する出来事があると、ぼくは思うからだ。例えば「地獄篇」第二十六歌、大海原に身を投げ出してしまったときのオデュッセウスの決断のように。あるいは「地獄篇」第五歌のフランチェスカの、恋のきっかけとなった本のように。そしてぼくの場合、それは、父が朝に救急車で搬送された先の病院から、昼に至急戻るよう連絡があり、大急ぎで移動しているさなかのことだった。そのとき、「地獄篇」の最後の校正刷りを戻すためにぼくは郵便局に立ち寄った。それゆえ、ここにそのときの自分を刻みつけておく。
あの日々に、ぼくはできたばかりの校正刷りを前にして、どうしても気になって、通常は重要視されることのないダンテの父アリギエロの(そして母ベッラの)、肉声の欠片を探して、耳を澄ましながら自分の訳した本文を声に出して読んでいた。
ダンテの父アリギエロは一度も『神曲』の中に姿を現していない。彼の仕事は貸金業であり、それは教会から蔑視されていた。加えて、登場人物であるダンテが「天国篇」において、先祖から自身の血統が貴族に属していたことを知らされ、誇りに思う描写がある。こうしたことから、彼の父の影響はあまり顧みられてこなかった。しかし「天国篇」の各歌解説にも書いたように、ダンテは血統による高貴さという思想を打破するために、そのような描写をしたのだ。だから「おお、芥のごとき、血統による我ら人の高貴さよ・・・・・・おまえはすぐに短くなる外套だ。日々継ぎ足されねば、時の鋏に裾を切り落とされていく」(「天国篇」第十六歌冒頭)とダンテは書いたのであり、先祖が貴族であることを意識した登場人物ダンテの言葉を耳にしたベアトリーチェは、それを咎めるように苦笑した。
現在は、ダンテの父親が営んでいた小規模な貸金業という職業は、ダンテの思想形成に決定的な役割を果たしたとされている。なぜなら、ダンテが政治的重職にあった西暦1300年頃のフィレンツェの政治状況にあっては、ダンテたち教皇党白派は、領域内の職人層などの利益を代表し、一方、対立する教皇党黒派は、生産活動によらない、金融操作による莫大な利益を追求した大銀行などの利益を代表したからだ。この場合、小規模な貸金業を営むダンテの父が、地域の経済を支える役割を果たしたであろうことは想像に難くない。だからこそ、ダンテは教皇党白派の領袖の一人としてフィレンツェ政府の意思決定機関である統領の一人となった。その結果、敵対する教皇党黒派は教皇庁と結び、フランス王国から傭兵を呼び寄せて白派を追放し、亡命者となったダンテは、その経験を刻み込みながら、叙事詩『神曲』を書いていくことになった。
一方でダンテが幼いころに亡くした母の影は、おそらく変転する運命の中でダンテが皇帝党的な立場へと少しずつ移っていったことに表れている。晩年のダンテが最も期待をかけ、「天国篇」を献呈したのは、皇帝代理の重職にあったヴェローナの僭主、カングランデ・デッラ・スカーラだった。そしてダンテの母ベッラの実家は皇帝党に所属するアバーティ家だったのだ。
ぼくにダンテの両親の肉声は聞こえてこなかった。けれども今、少なくとも彼は、父と母の愛ゆえに生まれてきたことを大切に思っていたと確信している。最後に『神曲』の本文を読み返していて、前からあったはずのそれらの言葉が、ぼくに突然、聞こえてきたからだ、愛情のこもった「父」「母」「息子」という呼びかけが。
(はら・もとあき 東海大学文学部専任講師)
講談社 読書人「本」9月号より
1967年生まれ。東京外国語大学外国語学部イタリア語学科卒業。同大学院博士前期課程修了。イタリア政府給費留学生。東京学芸大学、お茶の水女子大学講師などを歴任。現在、東海大学専任講師。専攻は、イタリア文学、中世ルネサンス文化。
著:ダンテ・アリギエリ/翻訳:原 基晶
新訳『神曲』全三巻
(講談社学術文庫)
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